
5年ぶりの中学時代の同窓会。
14時から飲むのかい⁉️
と突っ込みながら、自分は待ちに待っていた。
会いたかった。
話したかった。
あの時、伝えきれなかった言葉を、どうしても伝えたかった。
5年前にも会っていた。
なのだが、自分が身構えてしまった。
5年前から今でも、自分の中での、戦いの言葉を、皆に言いたく無かった。
多分、誰もが理解してくれるはず。
だから、良いも悪いも話したかった。
聞いてもらっても、楽になりたかった。
しかしそれは甘えでしかない。
それが判っているだけに、話す事が怖かった。
信じられないだろうが、自分は小学生から中学生の間、かなり酷い貧血性であった。
朝礼に出る事とプールに入る事も禁止されていた。
迷惑をかけるし、死に至る可能性もあったからだ。
だから、自分の中学生の間の気持ちは「迷惑をかけないこと」だけだった。
そのためには、影に隠れて目立たない事に徹する事だった。
その中で。自分を出してよい場所があった。
それが、ギターと、マラソン・持久走・駅伝だった。
なのだが、自分のランナー生命を終わらせてしまったのが、皮肉にも目黒区の駅伝。
圧倒的に、とにかく速かった自分は第一走者。
しかし当日は、ミゾレ混じりの、気温5度程度の、最悪のスタートだった。
しかしスタート時、自分の体調はできていた。
だから、圧倒的の差をつけて、トッブで走っていた。
足がツルまでは・・・。
監督もいない。
体調管理も自己責任だった。
足が吊っても、治し方も、どうしたら良いかも判らなかった。
何度も白バイの方から、「無理すれば、二度と走れなくなる。諦めなさい」と言われた。
でも自分は、トッブから転がり落ち、ラスト2人まで落ちても、動かない足のまま走りタスキを繋いだ。
判っていたのは、仲間が自分を信じてタスキを待っていてくれるという希望だけ。
実際、誰もいない中継地点で、ミゾレに打たれながら、じっと待っていてくれていた。
自分に起こっているだろうトラブルまでを想像してくれて・・・。
そして、引き継いだ時の一言は「よし、まかせろ」だった。
結果として、皆が区間新記録になる程に頑張ってくれて、3位で賞状をもらった。
代償として、自分のランナーとしての生命は終わってしまったが・・・。
今日の同窓会の2次会の時、その話をしていた。
自分としては謝りたかった。
しかし、返ってきて言葉は、「来ると判っていたし、事実、お前は来た」だった。
今の時代にはない、形なんて無い、誰もか疑う、「信じる」という3文字。
しかし、自分たちの時代には、確実に存在していた。
今の自分の回りでは、まず聞けないし、信用出来ない3文字。
それが確かにあった。
そして、それが、こんなに時間がたっているのに聞けた。
あの日。
ランナーとしての自分は終わってしまった。
しかしそれを。
誇りに思って良いのだ。
と・・・。
今日、教えてもらった。