The orthodox civilization is the festival politics of Japan

「安藤真の『世界文明の正統は』」の続き、祭政は人間中心を超え物質文明を越える、これを受け継いでいるのが日本の伝統と文化

クレオパトラの知的な横顔

2009-02-07 07:30:17 | Weblog

 この像が正確であるならば、ずいぶん清楚で知的な印象ではないか。
 何人ものオトコを手玉にとって運命を狂わせた妖婦のようには見えない。
 実際は、教養が深く魅力的な女性だったという意見があるが、こちらの方が本当かもしれない。
 テレビの番組では、エジプトの女王であった時、ある生き物を国外に持ち出すことを禁止したという、この生き物は農作業にとって大変に重要な手助けをしてくれる、それは何か。
 いくつか解答があった、それはネコではないか、蚕では、いやモグラ、ネコはネズミを駆除してくれる、蚕は絹を生産してくれる、モグラは地面の中に穴を通して通気性を高めてくれるのではないか。
 答えは、なんと「ミミズ」、ミミズは土壌を豊かにする畑にとっての宝物、これをエジプトから持ち出すことを禁止する、クレオパトラが命令したというのだ。
 こんなことまでアタマが働くとはフツーの女王ではない、あのシーザーが愛するというのも分かる。
 シーザーは単なる政治家・軍人ではなく、「ガリア戦記」も執筆しており、これはラテン文学の名著である。
 銀座のクラブに招待されたことがあるが、十数人のホステスの中で一番人気のあるのはそれほど美人ではなかった、温かみがありアタマのいい会話の妙手。
 楽しい気分にさせ飽きさせない、これにある種の女性の持つ「アイディアやインスピレーションを与える能力」があれば文句がない。
 それこそが、ビジネスや政治の局面で、神秘的なヒントを生み出してくれる。
 Cleopatraには、そんな魅力があったのではあるまいか。

ギリシャの神々の瞳の色

2009-02-06 07:19:39 | Weblog

 緑色の瞳は何を意味するか、緑と青では、緑のほうが、やや、南方的であろうか。
 茶色・緑・青・うすい青…
 こんな順序ではなかろうか、いずれにしてもEgyptの気候にあっては緑色の瞳は危険な状態であろう、それは、強烈な日光・紫外線によって組織が破壊されるためである。
 21世紀の現在、オーストラリアの白人たちのskin cancerの罹患率が高いことでも証明されている。
 クレオパトラの瞳の色が緑色という事実は、ギリシャ人が北方系の民族であるという証明かもしれない、すると、ギリシャの神々の瞳も緑乃至青だった確率が高くなる。
 だが、後にトルコ人が侵入し、ギリシャ人はmixされてしまった。
 地中海のある島に、古代ギリシャの血統を引き継いでいる人びとが住んでいる、大変に、神々しい容貌らしい。

クレオパトラの緑の瞳

2009-02-05 03:14:05 | Weblog

 先日、テレビでローマ帝国とエジプトの関係をやっており、シーザーとクレオパトラについても触れていた。
 クレオパトラはプレトマイオス朝の女王で、プトレマイオス朝はギリシア系の王朝、なお、クレオパトラとは「父の栄光」を意味する。
 調べてみるとBC69年に生まれてBC30年に亡くなっていた、すると39年間の生涯ということになる。
 王家の混乱と骨肉の争いのうちに即位したクレオパトラは、その美貌が伝えられている、その彼女の瞳の色はエメラルド色・緑色だったという。
 これは、ちょっとした発見である、当時のエジプトにとって、プトレマイオス朝は征服王朝であり、あのアレキサンダーによって成立したもので、支配者の一族はギリシア人、その瞳の色が褐色ではないということは様々のヒントを与えてくれる。
 そのうちのひとつは、ゼウスやアポロンも青い瞳ではなかったかということ、ギリシアの神々のイメージが広がっていく。

日本列島の青春

2009-02-04 04:29:49 | Weblog

 縄文の中期は人口が多く、八ヶ岳の山麓にも、比較的多くの人びとが、住み着いていた。
 七月の八ヶ岳は気持ちがいい、日本列島の中では、もっとも快適な地域ではなかろうか。
 だから、大らかで明るい土器や土偶が作られらたのであろう。
 八月の下旬、高速バスで中央道を使って、帰ってきたことがある。
 新宿に着くと、ベトベトした暑さ、ここがヒトの住むところかと思った。
 多くの人口を養わなければならない農業社会は、湿潤な広い平野で発展してきたのだが、本来の日本の人びとの生活は、ちょっと違っていたのかもしれない。
 そう、縄文の中期にクッキーが発見されている、これは脂肪酸の分析によって分かったもので、当時の彼らは、様々な工夫をしていた。
 この時期は、日本列島の青春だったのかもしれない。

東北の博物館の事情

2009-02-02 07:43:57 | Weblog

 都会の人間には考えられないことがある、縄文の文化の調査で、東北地方の町立の博物館を訪問したことがある、実に、多くの土器や土偶が展示されていた、それについて質問をすると、
 「初めて来た人になんか答えられない」
 「・・・ 」
 「二回か三回、いや五回ぐらい通ってくれなけりゃあねえ」
 まだ、30代の館員、これにはびっくりしてしまった。
 都会だってたいしたことはないが、これでは、東京に出ていった若い連中が帰ってこないはずだ。
 きっと、本家か分家か、長男か次男、座る位置まで決められているんじゃあないかな。
 私は、そんなに難しい質問をしたのではない、五回も通って聞くほどのコトではない、インターネットの時代になってもこんなことがあるんだなあ。
 そうそう、東京の大学の先生が「こう言った、ああ言った」いう言葉があった。
 大学のセンセーさまの言うことはゼッタイみたいだ、これも発見である。
 大学の研究室に閉じこもって現地の調査もしない連中では、実際のところは分からない、血の通った研究や発見は無理、それよりも、自分の目を信じ磨いていくことのほうがどれほど貴重であるか、そこんところを自覚してもらいたいもんだ。