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ナオスミンの雑記

2009年9月14日より、ブログ開始しました

お姑の終末期に思うこと

2015年08月18日 14時25分22秒 | お気に入り
施設に入所しているお姑も、最近熱が上がったり下がったりを繰り返し、いよいよかなぁと思ったりしている。
そして、今になって思うのは、私はお姑に何をしてあげられたかということである。
家族でいろんな所に行ったし、温泉にも行った。
でも、一生懸命お世話をしたとは言えないだろう。
ある程度はお世話したが、つくしたとは言えない。

こういう場合、一生懸命つくした人は、後悔しないのだろうか?
相手の望むことをなんでも叶えてあげることを、つくすというのだが、つくすことは、自己満足に過ぎないのではないかと思うからだ。
お姑は、つくされて、望むことをなんでも叶えてもらって、それで満足するのだろうか。
確かに、なんでもやってくれて、ありがたいと思ってくれるだろう。
だけど、なんでもやってくれるということは、自分でなんとかやってみようとする事を阻止してしまう。
それは、お姑のためになる事なのだろうか?
相手を思うのなら、自分でできる事はやってもらい、どうしてもできない事だけを手助けする方が良いと思う。

なんだか、とりとめのない事を書いてしまったが、要するに、自分は相手のためにどれだけつくしたか、ではなく、自分は相手の成長のためにどれだけ役に立てたか が、重要だと思う。
そう考えると、お姑と全く違う価値観を持つ私は、お姑を悩ませ、困らせ、考えさせた点では、お姑の成長のために少しだけお役に立てたのかもしれない。







悔いのない生き方

2015年07月04日 15時40分27秒 | お気に入り

どんなふうに生きれば、死ぬ時に悔いが残らないのだろう?

美味しいものを食べ続ければ、悔いが残らない?

たくさん旅行すれば、悔いが残らない?

たくさんの友人達と楽しく過ごしたり、大恋愛すれば悔いが残らない?

社会的地位が高ければ、悔いが残らない?

子供が自立した大人になれば、悔いが残らない?

なんだか、私はこれらがすべてかなったとしても、悔いが残る。

もちろん、これらは、どれもかなってほしいことだが、人生の目標とは異なる。

 

これらだけでは、私は死ぬ時に悔いが残る。

美味しいものを食べる時の幸福感は一時のものだし、旅行の幸福感も一時のものだ。

友人と過ごす時間は楽しいものだが、それも一時のものだ。

 

どうしたら、悔いのない人生を送ることができるのだろう?

私は、生きている間に、どれだけこの世を知ることができたか、そして、どれだけ誰かの役に立ったか、が、悔いのない人生のためには必要なんじゃないかと思う。

この世を知るということは、歴史、科学、政治、哲学、物理学なども含むし、生まれた意味を知ることであり、この世の法則を見つけることでもある。

そして、今無事に生きていられる、今食べることができることのありがたみを、日々感謝することでもある。

誰かの役に立つということは、金銭面だけではなく、誰かの生き方をより良い方向に導くことである。

それには、書物として残してくれた、昔の偉人達がよい例である。

また、自分の生き方を通して、周りの人々に影響を与えることもできる。

 

悔いのない人生は、本当に難しい。

それに、人生は、本当に短く、今回もよくわからないまま、悔いを残してしまいそうである。

ともあれ、これからの日々を、ほんの少しでも、悔いの残らない方向へ持っていく努力を続けようと思う。

 

追伸

聖人と呼ばれる、キリストやブッダは、日々美味しいものを食べ続けたり、友人達と毎日騒いだりして時間つぶししただろうか?

それよりも、どうしたら、人々を良い方向へ導けるかを考え、書物を書いたのではと思う。

だから、孤独だったのではないかと思う。

かといって、孤独を悪いものだとは思わず、楽しんだのではないのだろうか。

 


ママ友の格付け?

2014年09月02日 16時50分35秒 | お気に入り

今日のテレビを見ていて、ママ友の格付けの事をやっていましたが、本当にバカバカしいですね。

旦那の職業や収入、持ち物や服、住んでいるマンションなどで、ママ友の格付けをするんですって。

これって、全部お金があるかどうかですよね。

しかも、旦那の。

 

知恵のあるママや、思いやりのあるママ、面白いママ、節約上手なママ、世の中を分かっているママ、こういうことの格付けなら、納得はいきますけど、旦那の稼ぎで決まる格付けなんて、本当にバカバカしい限りです。

女性は、服や持ち物、他人の噂話よりも、もっと世の中の勉強をすべきと思います。


球電?

2014年05月21日 16時15分00秒 | お気に入り

この間の、「世界まるみえテレビ」で、球電のことをやっていましたね。

これは、雷の時に起こることがある、自然現象なのだそうですが、まだその現象がどうして起こるのか、はっきり解明されていないのだそうです。

だから、再現もできないのだとか。

それにしても、まだまだ自然は神秘と謎に包まれていますね。

晴れているのに、雷に打たれて亡くなる場合、科学ではどう説明するのでしょう?

球電も、プラズマなのだそうですが、雷の時に必ず球電ができるわけでもなく、なぜ、その場所にできるのか、解明できていないみたいです。

 

で、思い出したのは、以前、台所の鍋の蓋が、ほんの数秒、回転したことがあったことです。

http://blog.goo.ne.jp/naosuminn/e/f8a9c5318002eecf202789eec0211f70

 

というのは、

http://www.ureagnak.com/fushigi_26.html

こちらのページを見て、大笑いしてしまったのですが、球電がお釜の周りを回ったことと、鍋の蓋が回転したことが、なんか似ているなーと思ったのです。

でも、私の場合は、球電は見えなかったのですが・・・

見えないくらいの明るさでも、かなり小さくても、この球電現象はあるのではないでしょうか?

 

そして、「かまいたち」という現象も、もしかしたら、この球電現象で、説明がつくのではないでしょうか?

 

それにしても、自然現象とはいえ、球電が、いつどこで発生するか、謎だらけです。

雷にしても、空中で何もないところから莫大な電気を発生させるのだから、人間はかないません。

人間は、原子力、火力、水力、風力などでしか、電気は作れませんが、自然の力は、空中で電気を作ってしまうのですから。

その雷に打たれたり、球電に遭遇するなんて、偶然なのか、必然なのか・・・・


自分を救うのは自分

2014年05月13日 17時31分20秒 | お気に入り

よく、宗教などで、「うちの○○という神様を信じれば、あなたは救われる。あなただけは助かる」、などと言って、信者を獲得しようとするが、それは違うんじゃないかと私は思う。

どんなに熱心な信者だとしても、カルマの法則から逃れることはできず、事故にあったり、病気になったりする場合がある。

 

何かにすがるより、結局自分を助けるのは自分しかいないのだと思う。

過去の行いが、今の自分を助け、そして、今の自分の行いが、未来の自分を助ける。

逆もある。

過去の行いが、今の自分を危険な目にあわせ、今の自分の行いが、未来の自分を不幸にする。

それが、カルマの法則というものなのだと思う。

 

そういう、カルマの法則があるんだよ、ということを教えてくれる存在が、サイババなどの聖者と呼ばれる方々なのだろうと思う。

だけれども、自分の力ではどうしようもない事に対しては、私も神様に祈らずにはおれない。

神様は、念の力がとても強いのだと思うから。

そして、毎日、無事に過ごせたら、神様に感謝の祈りを忘れずにしようと思う。

 

私は、何かの宗教団体には入っていないし、これからも入らないが、神様(創造主)は存在すると思っている。

神様は、この世の法則をつかさどっている、存在なのだと思っている。


波動の法則

2014年01月13日 17時03分30秒 | お気に入り

以下の動画を見て、思いました。

http://www.youtube.com/watch?v=nJED1d4ZzGI&list=PLC1732D021D633524

 

テレビでも、前にフィリピンだったかで、他の葉っぱは全然揺れてないのに、一枚だけ揺れている葉っぱの映像を見ましたが、その原理はその葉っぱが持つ振動数とそこに吹いている風の振動数が同調したから、ということだったと思います。

 

波動、あるいは振動数または波長は、同調するという法則が成り立っているようです。

それで思ったのですが、人間も一人一人、固有の波動、波長を持っているので、自分の波長に同調する人が現れると、無意識に反応するんじゃないかということです。

気があう、会うと楽しい、というのは、その人と波長が合うからなんだと思います。

 

そして、自分の周りには自分の波長に合う人が集まってくるのだと思います。

それは、良い意味でも悪い意味でも。

不良グループには不良が集まるように。

 

波動の法則はカルマの法則でもあると思います。

自分の出した波長は時を経て全部自分に帰ってくるというか、自分固有の波長が自分に帰ってくるのは当たり前なのだと思います。

だって、自分の出した波長にもっとも同調するのは、ほかならない自分なのだから。

 

人間は、心の中で思っただけなら罪にならないと思っていますが、心の中で思ったことが波長になり、あとあと自分に帰ってくることになると思います。

目に見えない、聞こえないものは信じないという考え方が常識ですが、電波も無線も見えなくても存在しています。

人間が思うことだけは、何も影響がないなんて思えません。

脳波だって、弱い電波です。

 

私は、神様というのは、ものすごく清らかな波長を持つ存在だと思っています。

そして、神様の波長に近づいていけば、良いカルマが自分に返るようになり、ゆくゆくはより清らかな波長の世界に生まれ変われるのだと思っています。


肉体と魂について

2013年10月01日 16時42分36秒 | お気に入り

宗教関連の考え方で、肉体をパソコンや車に例える場合が多いが、それは魂と肉体は別々の存在とみなしているからだと思う。

肉体も神様(この世界を作った創造主)が作ったものであり、手足、目耳、内臓、そのすべてに神が宿っていると思う。

思考は間違うことがあるが、体は間違わない。

体の声を聞くことは、神の声を聞くことと同じだと思う。

自分の思い通りに動く手足、見たいものを見る目、聞こえる音、どれも人間が及びもしない素晴らしいものだ。

ただ、肉体には寿命があり、魂には寿命がないという、違いがあるだけだ。

私は、肉体と魂は正味一体だと思う。

その正味一体である肉体と魂両方にまたがって神様が宿っていると思うので、肉体が滅びたら、肉体は気体となり、その気体を魂と呼ぶのではないかと思っている。

つまり、肉体と魂を分けて考えることはできないと思う。

 


回転するオシリス像

2013年08月20日 16時57分00秒 | お気に入り

この世には不思議な現象がやはりあるようです。

今年の6月に、マンチェスター博物館にあるオシリス像が、ひとりでに回転していたのだそうです。

たかが像、ただの物体だとは、思えないですね。

やはり、物、形には魂のようなものが宿るのかもしれません。

以下が、回転していたという動画です。

http://www.youtube.com/watch?v=AbXEHu27qUI

 

かなり前の話、日本でもサイババブームだったころ、私が台の上に乗せておいた小さなサイババの写真立てが、いつの間にか180度回転していたことがあったので、同じような不思議なことってあるんだとびっくりしています。


答えが見つかった 「魂の法則」 舅との関係

2013年07月30日 18時42分48秒 | お気に入り

私はずっと、舅との関係で悩んできた。

嫁に来てから、ずっと嫌なことをされ続けてきた舅に対して、どう接すればいいのか分からなかった。

でも、「魂の法則」を読んで、答えが見つかった気がする。

というより、自分が考えていたことと「魂の法則」に書いてあることが同じなので、ホッとした感じだ。

 

以下は「魂の法則」からのコピーです。

http://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf

 

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

 

考えたことではなく、感じたことに従って生きようとしなさい。他者を思いやらねばならないが、その期待に沿おうとするのではなく、自分の気持ちに従うこと。

人から傷つけられたことを口実にして、自分の不信感や孤立を正当化してはならない。自分の感情を利用したいのだと思う者には慎重になり、誠意を持って近づいてくる者には心を開くのだ。

 

相手の苦悩が我々の利己的な行為によるものなのか、それともその人自身の我欲、つまり我々の意思や自由意志を尊重したくないためなのかを知る必要がある。

我々の利己的な行為が原因なら、我々が是正の努力をするべきだし、相手の我欲のせいなら、苦しみを生み出しているのはその人自身なので、その人が改善しなければならない。他者のせいで苦しんでいると思っていても、独りで苦しんでいるのだと知るべきなのだ。

 

*でも、その人が変わりたくなければ、どうしますか?

 

その人にとって自己改善することが有益であっても、そう強制すれば本物ではなく自由意志を侵害してしまうので、相手に強要はできない。そうは言っても、その人に、他の人の意志を曲げる権利がある訳ではない。だから、自分本位な人の利己的な態度に従わされている人は、自分の感情や信念を曲げるべきではないのだ。

 

自我によらなければ確固とした態度を保ち、相手の利己的な行為に屈してはならない。

 

*先ほど、他者を喜ばせようと過剰な努力をしてはならないと言われましたが、誰かを愛すと、その人が幸せでいられるようにあらゆることで喜ばせてあげようとすることと、矛盾しませんか?

 

喜ばせてあげればあげるほど愛していると考えるのは、大きな間違いで、善意ある者の多くが陥る大きな罠だ。

愛している人には、その人を喜ばせる以前に、援助し、理解し、尊重しなければならない。

 

喜ばすのと支援することの違いを知っておくことは大切だ。と、言うのは、誰かの機嫌を取る時に、手を差し伸べる代わりに弊害を与えてしまって、喜ばせたのは相手の我欲だけだった、ということもあるからだ。

しかも、自分の自由を失って、相手の我欲に自分の意志を服従させて機嫌を取る時は、自分自身を犠牲にしているのだ。

 

*手助けと機嫌取りとを、どう見分けるのですか?

 

自分で超えなければならない試練や状況を背負っている人を、喜ばすだけで助けなければ、能力を試す機会を奪うことになるので、その人の魂の停滞に一役買ってしまう。

真の手助けというものは、その人自身で試練や状況を解決できるように、支え励ましてあげて、前進できるようにしてあげることだ。

 

*援助することと機嫌を取ることの違いがはっきりする例を挙げて下さいますか?

 

そうしよう。先生に学校の宿題を家でするように言われた同じクラスの二人の子どもをイメージしてみよう。二人ともずっと遊んでいたいし宿題はうんざりするものなので、しないで済ませようとする。

 

一人の父親は、息子が怒らないように、しかも宿題をやらずに学校に行くという羽目にならないように、自分が代わりにやることにするが、その間子どもは楽しく遊んでいる。

もう一人のお父さんは、子どもがしばらくの間遊びを止めなくてはならなくても、子ども自身が宿題をするように、一緒に座って手伝ってあげることにする。

最初のお父さんは、息子が嫌いな作業をしてあげているので機嫌を取ってはいるが、宿題は子どもに課された状況であり、その子の学習に必要なものなので、援助をしてはいない。この父親は、息子が怠惰で依存的で我がままになり、どんな状況でも自分の問題を解決してくれる人を求めるようになることに、加担してしまっているのだ。

 

二番目のお父さんは自分の姿勢によって、遊びを中断したくない息子が怒る可能性を冒しているので、機嫌を取ってはいない。だが、子どもが学んで自己責任を受容することに寄与しているので、子どもを援助していることになる。

 

*それなら愛する人を喜ばすのは、いけないことなのでしょうか?

 

いつも悪いとは限らない。自分自身の自由を犠牲にしてしまう場合と、相手が独力で超えねばならない試練の肩代わりをして魂の停滞に加担してしまう場合が良くないのだ。

 


本当の神様なら、平等であるべきか?

2013年01月14日 13時08分53秒 | お気に入り

昨日、ちょっと、ある方のブログを読みまして、あれ?っと思ったわけです。

 

「人を差別するような神様は、本当の神様じゃない、本当の神様はすべての人を平等に扱い、すべての人を助けるはずだ」と、その人のブログには書いてありました。

 

うーーん・・・・それは、ちょっと違うんじゃないかな・・・

神様は、差別はしてないと思いますよ。

ただ、人間の方が、徳を積み重ねて、神様の波動に近づくかどうかの違いがあるだけだと思いますよ。

神様の波動に近づけば、おのずと助けられるというか、自分が自分を助けることになると思うのですよ。

 

だから、あの神様は、他の人ばかり助けて、こんなに一生懸命祈ってる自分を助けてくれないから、インチキだと考えるのは、ちょっとおかしいと思いますね。

あの、、、神様って、色んな呼ばれ方をしてるけれど、創造主の事ですけどね。

 

人って、みんな一緒のように思うけど、実に様々な、途方もない距離のレベルの違いがあるように思うのですよね。

その、ピンからキリまでの私達を、神様は平等に見ていてくれるのは、確かですよね。

神様に助けてもらいたいのであれば、自らが神様に近づく事が大切なのだと思いますね。

助けてもらえないように見えるのならば、自分がまだ、そういう域に達していないということなのだと思いますね。

 

誰だって、実は神様に助けてもらっているのに、気がつかないだけなんだと思います。

今生きていられるのは、神様が助けてきた証拠だと思いますね。

家族も友達も、暖かい家も、美味しい食事も、神様が助けてくれている証拠ではないでしょうか。