同じような波動を持つものは同調する、という法則は、確かにその通りだと思います。
似た者同士が集まるんですね。
前回、神社や仏閣について、あれこれ思うことを書きましたけど、行かない方がいい場所なんかも書きましたけど、見回してみると、それ以外にも、ここは大丈夫?と思うような場所がたくさんあることに気がつきました。
例えば、病院です。
今や、病院でみんな亡くなります。
ということは、病院も気をつけなくてはいけないことになります。
病院にも、さまざまな霊がいそうです。
じゃ、我が家はどうなのか、と考えると、2年前にお舅が家の中で亡くなっています。
お舅は、人間的に良い人ではありませんでした。
昔は、みんな家で亡くなっていました。
そうなると、家の中すら危険かもしれません。
特に、何代にも続くような家は、何人ものご先祖が家で亡くなったことでしょう。
では、ご近所はどうか?
この近くで交通事故で亡くなった人もいるし、自殺した人もいます。
学校だって、飛び降り自殺した人もいます。
交通事故で、あちこちの道路で亡くなっています。
そんな風に考えると、どこにも居場所がないし、どこにも出かけられなくなりますね。
ということは、そんな事を気にして生きると、逆に、そういった暗いものを引きつけてしまう事になります。
明るく前向きに、自分の人格、波動を美しもの、正しいものに同調させていけば、暗い陰鬱な波動とは同調しなくなります。
同調しなくなるということは、そういった悪い霊を自分に引き寄せなくなる、という事になります。
神様くらいの高い波動、人格の持ち主なら、悪い霊がその場から消えてなくなるでしょう。
なので、前回書いた記事を、一部訂正します。
大事なことは、自分の波動を、正しく明るく、神の波動に近づける事、そしてそうなれるように日々努力し、気をつける事、なのですね。
ただし、やはり、夜遅くに出歩いたり、人気(ひとけ)のない場所や、暗い汚い場所には行かないのも、大事ですけどね。
だって、犯罪は夜遅くや、人気のない場所で起きることが多いでしょ。
でも、あとは気にしないで、自分の波動、つまり人格を高めて、行きたいところに明るく自由に行きましょう。
昨日の記事の続きです。
あれから色々と考えたのですが、人が行列をなしてぞろぞろ行くような神社や仏閣なら、行っても大丈夫だと思いました。
それは、その場所にも、ピンからキリまでのたくさんの霊が集まって来ていると思うのですが、同じくらいたくさんの人間がその場所にいるので、それだと波動の法則が成り立つからです。
その場所にいる霊たちも、自分と似たような波動を持つ人間の所へ近づく事でしょう。
問題なのは、あまり人の行かないような神社や仏閣です。
そういう場所に行くと、波動の法則が成り立たず、ピンからキリまでのたくさんの霊達がその人の所に集まって来ます。
悪い霊が悪さをする可能性が高くなります。
特に、心霊スポットと言われるような場所には、たとえグループで行くとしても、絶対に行かない方がいいでしょう。
なぜなら、そういう場所には、悪い方の霊がたくさん集まっていて、10人くらいのグループで行ったとしても、それ以上のたくさんの霊が集まっている可能性が高く、波動の法則など成り立たず、悪さをされる可能性が高いからです。
それは、10人のグループが、地獄に見物に行くようなものです。
というわけで、もし、神社や仏閣に行くのなら、人気が高く、たくさんの人が集まる時間帯に行くのが良い、と思いました。
次の記事に続く
追記
この記事を次の記事で訂正しました。
この記事を削除しようと思いましたが、そのままにしました。
今の私の考え方は、この記事の通りではありません。
今は、自分の波動、人格を高めることが一番大事な事、に変化しています。
この間、友人と話をしている時、去年の今頃、私が重度の捻挫をした話題となった。
その捻挫は、とあるその土地では有名な仏閣に行く途中の坂道を歩いている時に起きた。
その事を友人に話したら、「あなたって昔から霊感があったよね」と言われた。
ん?霊感なんてあったっけ?と思いながら、そういえば若い頃、よく金縛りになっていた事を思い出した。
友人が言うには、その仏閣で、自殺した人がいたのだそうだ。
私はギョッとした。
そんな事があるのだろうか…
ネットで調べてみたら、その仏閣に行く手前の橋が、心霊スポットと書いてあって、またびっくりした。
うーむ。
重度の捻挫をしたと言う事は、その仏閣には行ってはならないということか?
私は、神社とか仏閣は、建物や景観の素晴らしさに惹かれて最近よく行く。
御朱印ももらったりする。
しかし、ネットを見ると、パワースポット巡りの危険性も書いてある。
私は、目に見えない世界もあると思っている。
見たことはないけれど、気として感じることはある。
生きている人間だって、自分が心地よいと思う場所や人の所に自然と集まって来る。
暗いところが好きな人、飲屋街が好きな人、悪女が好きな人は、そういう場所を好むし、明るくて綺麗なところが好きな人、優しくて誠実な人を好む人は、そういう場所に集まっていく。
それは、見えない世界も同じで、暗い場所や悪人を好む霊は、そういう人の所に集まっているし、明るく綺麗な場所や誠実な人を好む霊は、そういう人の所に集まる。
神社や仏閣には、どんな見えない霊が集まっているのか…
色々な霊が集まっているに違いない。
良い霊もいれば、怖い霊もいるだろう。
恨みを抱いていたり、人を呪っている霊だって集まっていそうだ。
つまり、神社や仏閣には、ピンからキリまでの霊が集まっていそうである。
明るい綺麗な場所を好む人は、あえて夜の遅い時間に暗い場所に行ったりはしない。
それは、どんなに自分がしっかりしていても、危険に巻き込まれる事が多々あるからである。
逆に、暗い場所とか夜の歓楽街が好きな人は、明るい綺麗な場所は居心地が悪く、行かないだろう。
そう考えると、神社や仏閣に行く時には、そういうピンからキリまでの霊がいることを自覚して、本当に気を引き締めて行くべきだと思う。
「気」をつける、これが大事な事で、フラフラした気持ちで行くべき所ではない。
波動は確かに同調する。
自分の周りには、自分の波動と同調する人や霊が集まって来るのは間違いない。
しかし、善人が悪人だらけの場所に入ったら、無事でいられるだろうか?
善人と悪人は、波動は同調しなくても、善人がたくさんの悪人に囲まれたら、どうなるであろう?
現実世界を見ても、悪さをされることがわかるし、天使は地獄へ行ったりはしないはずてある。
次の記事に続く
追記
この記事を次の次の記事で訂正しました。
この記事を削除しようと思いましたが、そのままにしました。
今の私の考え方は、この記事の通りではありません。
今は、自分の波動、人格を高めることが一番大事な事、に変化しています。
自分が80代になったら、どんな気持ちになるんだろうと想像すると、母の置かれた状況はとても大変なのだと思います。
来年も生きているとは限らない、という思いは、どんなに厳しいものなのか。
人間って、どんなに年を取っても、精神年齢はなかなか歳をとらず、80歳になっても若い頃のままです。
それなのに、もうすぐ、自分が此の世を去るという現実を受け入れなければならないのですから、とてつもなく大きな試練です。
自分は80年も生きてきて、一体何を残せたのか、何を成したのか、こんなに長く生きて何もないなんて情けないではないか、などと、きっと私は考えます。
母のように、80歳になったら、ため息ばかりの毎日を送ることのないように、私にとっても長くない人生を大切に生きようと思います。
本当に、80年なんてあっという間です。
人生はなんて短いんでしょう。
少しでも進歩して此の世を去りたいものです。
この本を読んで、心に響いた部分を書き出しました。
自分の思いそのものが、自分の現実をつくるという法則。
◯◯が欲しい、という欲望は、◯◯が足りない現実をつくってしまう。
一方、◯◯に近づいている、という確信は、◯◯が近づく現実を引き寄せることにつながる。
人は何度転生しても、瞳だけは変わらない。
瞳の輝きは人間の魂を映し出す。
幸運な状況になったら幸せになるのではなくて、幸せでいるから幸運な状況になる。
中途半端に転生の仕組みを知っていると、来世のために勉強を行う者が出てしまう。それではダメなんだ。
天賦の才は、その魂がそらまでの過去生の中で培って来た努力の賜物。
楽しむことは、自分のスキルアップに直接つながる。
幸せになるためには、何かをしなければならない、という洗脳。
夢が叶わなくても、幸せでいることができる。
幸せは、すでに手にしている。
体の中で、一番優しくて働き者は、手だと思う。
痛いときはさすってくれて、痒いときは掻いてくれて、温めてくれたり撫でてくれたり、いつも忙しく働いている。
まるで母のようだ。
そして、足は父のようだ。
体の体重を一手に引き受けて、いつだって文句も言わずに体をあらゆるところに運んでくれるのだ。
手も足も本当にありがたいものだ。
他のあらゆる体の器官も、一生懸命働いてくれている。
なんてありがたいんだろうと思う。
最近、言葉の力はとても大きいと、すごく感じている。
愛、暖かい、光、平和、天使、勇気、大丈夫、などの言葉は、思うだけで明るく穏やかな気持ちになる。
反対に、暗い言葉、悪魔、憎しみ、殺戮、戦争、暗い、闇、恐怖、もうダメだ、などの言葉は、思うだけで気分が悪くなる。
言葉はダイレクトにイメージとつながり、だから力を持つのだと思う。
暗い言葉で、気分が滅入ったら、明るい言葉を使い、気持ちを穏やかにするのだ。
また、暗い言葉を使わないようにするのも、大事だと思う。
言葉には魂が宿る、というのは、言葉はイメージとつながり、イメージはエネルギーだから、魂とつながるのだろう。
つまり、魂は、思いのエノルギーなのだと思う。
先日、録画しておいたアンビリーバボーを見たのですが、感動しました。
4歳頃に、筋ジストロフィーと診断され、10年くらいしか生きられないと宣告された男の子は、その後家族と音楽を演奏し、そこに生きがいを見出しました。
病気でも、明るく前向きに生き、家族や友達に感謝しながら14歳で亡くなりました。
その男の子は、
歩ける、走れる、物がつかめる、自由に動ける、それは当たり前のことなんじゃないよ。
それは本当は奇跡のような事なんだ。
みんなはそれが当たり前だと思っているから、もっともっとって欲張りになっちゃうんだね。
というような詩を残してくれました。
なんて素晴らしい詩なんだろうと、感激しました。
この男の子は、きっと天使だったんだろうと思います。
きっと、今世の命は短くても、何度も輪廻転生を繰り返し、レベルの高い魂の持ち主だったのだろうと思います。
例えば私のように、カフェインがダメな人など、大多数の人と違うことをする人に対して、反応の仕方は3通りあるようです。
一つ目は、馬鹿にします。
おかしいと笑ったり、侮辱したり、蔑んだりします。
二つ目は、そういう人もいるんだと認めてくれます。
温かい目で見てくれ、興味すら持ってくれます。
三つ目は、無関心です。
馬鹿にしたりはしませんが、興味もありません。
さて、自分のみじかな人々はどんな反応をするでしょうか?
私は、一つ目の馬鹿にする人は、カルマの法則からして、悪いカルマを作ってしまうと思います。
人を馬鹿にするということは、その人を傷つける行為ですから。
だから、自分を馬鹿にする人がいたら、この人は悪いカルマを作ってるな、と思えばいいのです。
逆に、二つ目の認めてくるくる人は、思いやりがありますから、よいカルマを作ってると思います。
3番目の無関心は、良いカルマも悪いカルマも作らないように思います。
意識しないでいると、いつも頭をもたげてくる、もっともっとの心理。
もっと綺麗だったら…
もっと都会だったら…
もっと友達が多かったら…
もっとご近所さんから好かれたい…
もっと旦那が優しかったら…
もっとお金があったら…
もっと健康だったら…
数え上げればきりがありません。
そしていつも、不満の方ばかり見てるのです。
自分がどんなに幸せかを、見もせずに。
お舅も姑も亡くなり、やっと介護から解放され自由を取り戻せたのに…
旦那も自分も子供達も、たいした病気もせずに無事でいられることが、どんなに幸せなことか、すぐに忘れて、まだ足りない、まだ足りないって不満を探してしまうのです。
いつも意識して、不満より幸せに目を向けて生きていかなければならないと、思います。
幸せだ、ありがたい、の言葉を常に思い出して。