ナオスミンの雑記

2009年9月14日より、四年半使用し続けた、グリチルリチン酸配合のATPリピットゲルを中止。リバウンド体験中。

おでこがガサガサ、ブツブツ

2010年03月29日 18時30分12秒 | アトピー

おでこが痒いとき、やさしく掻いたり、やさしくマッサージしているのですが、触った感じ、ガサガサして、細かいブツブツが出てきております。

たぶん、おでこをいじらなければ、ガサガサもブツブツもなくなるのでしょうけど、それでは湿疹が治るのに時間がかかりすぎるし、あの猛烈な痒みを我慢するために、何度もウナクールを塗ることになってしまいます。

それで、ウナクールをなるべく夜寝る前だけに使用することにし、日中は、痒いときはやさしく掻いたりなでたりしているわけです。

ブツブツ、ガサガサですが、やさしく掻くだけでも、我慢するよりは快感ですし、体が掻くことを要求しているから、掻くと快感を得られるのだと思います。

強く掻いて、二次感染を起こしては駄目ですが、やさしく掻く分には、皮膚の上に傷もさほどできないし、血行が良くなって、早く湿疹が治るのではないかと思っております。

 

脱保湿五カ月

2010年03月24日 17時38分38秒 | アトピー

脱保湿を開始してから、すでに五カ月が経ちました。

しかし、湿疹は治っておりません。
顔も、背中も、胸も、足も。

お風呂上がりの顔の乾燥は、だいぶ良くなりました。
リンゴも痛くなく食べられます。

体には、生まれてからほとんど何も塗ってこなかったので、乾燥は全く気になりません。

手は、まだまだ乾燥するので、ワセリンを寝る前に塗っております。

おでこは、かなり痒いです。
軽く掻いたりマッサージしたりすると、赤いブツブツが出てきます。

ウナクールは、顔に毎日塗ってます。
早く使わないようになりたいですが。
思う存分掻くことができたら、ウナクールは必要ないんですけどね。


エビスタをやめない母

2010年03月24日 16時59分02秒 | Weblog
母からエビスタのことで相談され、私なりに、危険な薬だから徐々に減らしてやめるように説得しました。
しかし母は、整形の先生から、みんな飲んでるし、とてもい薬だから飲み続けるようにとの指示があったとかで、まだエビスタを飲み続けております。

やはり、母は、娘のアドバイスよりも専門家の肩書のある医者の言うことを信用するようです。
同じように、私の兄弟も、みんな医者の言うとおりにしたほうが良いと、母にアドバイスしております。

こうなってしまうと、いくら私が心配して説得しても、無理なのです。
ましてや、母は自分の信念とか考えを持たない人なのです。
すべての行動を、人に聞いて、人に決めたもらう人なのです。
そして、何か悪いことがあれば、全部その決めてくれた人のせいにするのです。

娘の言うことをきかず、医者の意見を聞き入れて、危険な薬を飲み続けることを決め、それで何かあったとしても、やはりそれは母が決めたことであり、母の責任なのです。
誰のせいにもできないのです。

今の母の状態は、

この前までは、耳の聞こえが悪くなっていたが、今はだいぶ良い状態である。
血圧が高く、特に朝は190くらいある。
膝から下にむくみが出てきている。
毎日憂鬱で、不安感がある。

このような状態です。
私はエビスタの副作用が出ていると思いますが、母は聞く耳を持たず、毎日愚痴をこぼし続けております。

胸の湿疹と気管支炎

2010年03月18日 15時18分07秒 | アトピーに対する考え

背中は、まだまだ痒くて、毎日ガンガンと掻いてますが、見た目にはシミもかなり薄くなり、良くなってきております。

しかし、まだ背中のところどころに吹き出物のようにポツンと出ております。

胸の湿疹は、今、体中で一番痒くて、ブツブツと赤い湿疹が出ております。
汁は出ませんが、入浴中に掻くと、垢がボロボロと取れ、血液の匂いがします。

背中と胸の湿疹は、これ以上は広がる様子はありません。
胸の湿疹が出てから、なぜか気管支炎に悩まされなくなりました。
毎年冬になると、必ず、ときどき咳が止まらなくなり、ひどい時には呼吸困難のような状態にまでなっておりました。
急いで龍角散トローチをなめて治めておりましたが、今年は咳が出ないので本当に楽です。
胸に湿疹が出たことにより、毒素が排出され、気管支炎も良くなったのではないかと思っております。

首の湿疹はシミもなくなり、八割がた治りました。
やはり、湿疹は掻いて治すのが正解のようです。
掻いて新陳代謝を高め、毒素を出していけば、数か月で良くなっていくようです。

胸の湿疹も、治るまで毎日掻いて毒素を出し続けるつもりです。
顔も、毒素を出したいのですが、見た目が悪化するので、軽くマッサージして、少しでも血流を良くしようと思ってます。


子供の人権

2010年03月15日 18時12分32秒 | 言いたいこと

日本も、戦後60年も過ぎたのに、日本人の意識はまだまだ昔のままなのでしょうか。
特に、今の高齢者の価値観には、驚かされます。

特に田舎のほうの高齢者にとって、一番大事なものは、自分の家と土地であり、家を継いでもらうのが、何より大切なことであり、子どもというのはそのために存在すると思っております。
子供に未来の選択の自由はないのです。
特に、後継ぎである、長男、長女には。

さらに、子どもは親の面倒をみるために産むものだと思っております。
子供の未来の可能性など、どうでもよく、一番大事なことは、親の面倒を見てくれることなのです。

確かに、年老いた親の面倒を子供が見るのは当然だし、それが親に対する恩返しでしょう。
しかし、親が、子供にも人生を選択する自由を与えてくれたならの話です。
子供をずっと親が束縛し、選択の自由を与えないのなら、どうして子どもは親に恩返ししたいと思うでしょうか。
人生の自由を奪った親に対して、反発し、恨むだけではないでしょうか。

女の子に対しては、特にひどい扱い方です。
嫁に「もらう」とか、嫁に「やる」とか、まるで品物のような言い方をします。
そして実際に、どんなにひどく嫁いびりをしても、年老いたら面倒を見てもらえると、当然のように思っているのです。

もし、不運にも女の子しか生まれず、長女が後を継がなければならなくなった場合、それでも長女が親の反対を押し切って、嫁に行ってしまった場合、親も親戚も、その長女を恨み、責めます。
二女、三女等は責められません。
お年寄りは、二女、三女は嫁に行くのが正しいと思っているからです。
嫁に行った長女が間違っていると、古い価値観で長女だけを責め、恨みの対象とします。

長女は一番先に生まれたというその理由だけで、将来の自由を奪われ、親に逆らえば、親、親戚一同から恨まれるのです。

でも、今のお年寄りは、親の決めた人と好きでなくても結婚しなければならなかったので、昔は子供の人権は今よりもっと低かったのです。

「家」とか、「結婚制度」とかがなかったら、どんなに子どもたちは自由だろうと、思ってしまいます。


「誰か」に祈るとき

2010年03月14日 10時10分16秒 | 精神世界
私は20代の時で、上の子がまだ一歳のころ、危うく死にかけたことがあります。
ある冬の寒い日の夜、FFヒーターの前で子供と旦那と過ごしておりましたら、子供が具合が悪くなってしまい、吐いた後にぐったりし、意識をなくしてしまいました。

その後始末をしていた私は、当時風邪をひいており、熱が38度くらいありました。
自分もクラクラして気持ち悪いのをこらえて、必死に子供が吐いて汚した部分を拭いておりましたら、ものすごい気持ち悪さとあり得ない頭痛、めまいが襲ってきました。

その時、ふらふらしながらも寝室にタオルを取りに行った私は、もうどうしてよいのかわからず、倒れそうになりながらも、必死に泣きながら声に出して、
「誰か助けてください、誰か助けてください・・・・」と、何度も祈りました。

当時、神様の存在などまるで信じていなかった私は、その「誰か」が自分でも誰なのかわからず、無意識に祈ったのでした。

その後、苦しくて朦朧とした状態で子供の世話をしていた私は、ふっと意識をなくし、倒れてしまいました。
そのままでいたら、おそらく、子供と私は意識をなくしたまま亡くなり、朝になって家族に発見されていたことでしょう。

しかし、その時、なぜか旦那は、一人だけトイレに十分以上も入っていたのです。
そして、部屋に戻った旦那は驚き、大慌てで救急車を呼んでくれ、私と子供の命は助かったのです。

まさか、一酸化炭素中毒とは、その時は私も誰も知らずに、運ばれた病院ではすでに意識を回復していた私は、「風邪くらいで意識をなくして救急車を呼ぶなど、そんな弱い精神でどうする」と医師から怒られ、ショックを受けました。

子供はてんかんではないかと医師から言われ、心配しましたが、あれ以来子供も意識をなくすことは全くなくなり、どう見ても、てんかんによる発作ではなく、一酸化炭素中毒によるものでした。

しかし、人は、死にそうな苦しみが訪れると、必ず「誰か」に祈るのではないでしょうか。
その「誰か」は、今思えば、神のような存在でしかないと思えます。
自分の力で生きているような気でいても、どうしても抗えないような瞬間には、人は「誰か」に祈らずにはいられないのだと思います。

不思議なことに、私が意識をなくしている時に、偶然にも実家から電話が入り、しどろもどろの旦那が応対しておりました。
神様、あるいはご先祖様が、実家に知らせてくれたのでしょうか。

私はいま、その「誰か」に助けられたおかげで、生きているのだと思います。
それなのに、普段なんともないときは、自分で生きている気でいて「誰か」に感謝もせずに、何か困ったときだけ「誰か」に祈るような、私は愚か者なのです。
今後は常に「誰か」を意識して、感謝の気持ちを持って生きていきたいと思っています。

軽く撫でる、掻く

2010年03月13日 13時04分45秒 | アトピー

顔の方は、ウナクールを塗って、痒みを我慢して、とにかく顔を触らないようにしていたら、見た目はだいぶ良くなりました。

でも、痒みは相変わらずひどくて、見た目は良くても、湿疹が治ったとはとても言えません。

それで、どうしたらいいのか、考えてみました。
本来なら、痒いときはしっかり掻いて、汁を出し、毒を出し切れば、湿疹は良くなります。
でも、顔の場合は、それができません。

なので、ものすごく治るのに時間がかかるかもしれないけれど、痒いときには、軽く痒いところを撫でることにしました。
いくらかでも、血行が良くなるように。

痒いところは、毒素がたまっているから痒くなるのだと思うので、軽くマッサージして血行を良くしてやった方が、何もしないよりは良いと感じたからです。

それで、三日くらい前から、顔は掻かずに、痒いときには撫でてるわけですが、案の定、おでこにブツブツが出現してきております。
汁は出てきませんが、やはり、見た目は悪くてもある程度ブツブツは出さないと湿疹は治らないんじゃないかと思います。


サイババについて

2010年03月11日 20時40分04秒 | サイババさん

私はどんな人、どんな問題についても、肯定的な意見と否定的な意見と両方全部読まないと気が済まないタイプです。
なので、サイババについても、肯定的な意見も否定的な意見も読みました。

そして、自分なりに思ったことは、サイババは神のようになるときと、人間になるときと両方なんじゃないかということです。
人間だから、年もとるし、マジックも使うし、性欲もあるし、病気にもなるし、車いすにも乗るし、機嫌の悪い時もあるし、寿命がくれば死ななきゃならないし。

でも、あるときは、神の使者のように、不思議なこともやったりするんじゃないかと。
信者の家のサイババの写真からビブーティーが出るのも真実なのだと思うし、アムリタも本当にペンダントから出てくるのだと思うし。
私の場合のように、サイババの写真立てがいつの間にか回転したりすることもあるし。
そしておそらく、サイババ自身が予言したとおりの年にサイババが亡くなるんだと思う。

この世の人間のレベルはピンからキリまでいて、サイババはある程度はレベルの高い人なんじゃないかな。
しかし、神そのものじゃないと思うし、聖者といえる人は、他にも過去にたくさんいたし、今もいるんじゃないかな。
だから、サイババだけが唯一の神だと思うのは、違うと思うのです。
なんかわかんないけど、不思議なおじいさん、そんな感じなのだと思います。

私はサイババを信仰はしておりませんし、まったく教えも守っておらず、肉もたまに食うし、魚も卵も美味しくて食べます。
だいたい、食べ物は私は自分の体に聞いて食べてます。
肉は自分の体が食べたがらないので、食べないだけであり、本当は好きなのに無理して食べないのではありません。
自分の体の感覚がまずいと言ってるのに、栄養があるからとか、なんでも食べないと体に悪いから、なんて頭で考えて食べることは、良くないと思いますね。


人生の目的・・・

2010年03月09日 17時55分20秒 | 精神世界
生きる目的が、社会的な成功だったり、成り上がることだったり、出世することやお金持ちになり、人から羨ましがられたりすることならば、その目的のためには、手段を選ばず、たとえ他人を傷つけても平気かもしれない。

でも、もし人が何度も生まれ変わるとしたら、人生の目的も少し違ってくるのではなかろうか。
それも、この次に生まれる場所や環境が、今まで何度も生きてきたカルマの影響を受けるとしたらどうだろう。

今回、日本という比較的平和な国に生まれることができ、なんとかこうして毎日暮らしていられるのは、もしかしたら、自分の前世のカルマの結果なのかもしれない。
しかし、今世で何か悪いカルマを作ってしまったとしたら、来世はもっと悲惨な環境のもとに生まれることになるかもしれない。

そんな風に考えると、ただやみくもに成功したいと他人を傷つけてもその目的のためにやりぬくことは、間違っているようにも思える。
できれば、他人に優しくし、他人を傷つけない人生をおくる方が良いように思う。

人生が一度きりなら、思いっきり楽しみ、他人のことなどお構いなく、自分の欲望の趣くままに生きた方が楽しいと思うだろう。
しかし、また生まれ変わるかどうかは、正しいのか間違っているのか誰にもわからない。
そして、人生が一度きりということも、同じく、正しいのか間違っているのか誰にもわからないのである。

だとしたら、本当かどうかはわからなくても、ある程度、今のうちから来世の準備をしておかなくてはならないんじゃないかと思う。
「自分のまいた種は、自分が必ず刈り取らなくてはならない」のだから。
今世で人を傷つければ、来世で自分が傷つけられるのかもしれないのだから。

人は生まれたときには、皆同じスタートラインに立つのではない。
それまでの前世での行いによって、そのスタートラインの距離には途方もない差があるのだと思う。