数学的証明法には帰納法と演繹法があるのだが、一方では弁証法という証明方法もあり、結局はこの三すくみで実証性の高い結論を導き出すのが不可知論の大雑把な在り様であろう。物理学的には不確定性原理に辿りつく。字義通りこの世は不確定要素で占められている。従って、我々の自由思考においては如何なる場合も固定した観念的な偏向を来たしてはなるまい。考える自由には限度がない。この限度を超えた自由こそ、ファシズムに打ち勝つべき最大の武器であり、ファシストが最も恐れ警戒し弾圧する対象となるが、さすがに彼等も人の頭の中にまでは踏み込めない。
琉球独立論というのは、専ら沖縄県民又は狭義の琉球人にあるとされる民族的な異種性(アイデンティテイ)が日本国を構成する大和民族?と微妙に齟齬するがゆえに生じる様々な阻害事実(それは現在進行形にある)から、特に琉球処分によって強制的に剥奪された民族自決権がクローズアップされて自然発生的な報復性の強いもの(日本国政府乃至これに巧みに便乗し陸戦協定違背の軍事的植民地状態を継続する米国政府への敵愾心----辺野古に関しては日本政府の不可思議な推進意思が米国のそれを凌駕している事実がある)と見做されている側面がある。
かつて西銘順治が言うところ琉球処分後の琉球は「ヤマトンチュになろうとしてなりきれない」状態にあったのだそうだが、それほど民族的に哀れな情感に支配されていたのでなく、むしろ在沖の為政者、権力者あるいは教育者、ジャーナリズムといった知的上部構造において傾向化した、異常なほどの「同化主義(ヤマトゥに同化するという考え方)」が大元のところにあった。何度も言うように「民意」とは民俗学的な常民レベルでの意思、意見のことだ。突出した知識階級や特権階級が持っているものとは質が異なりあらゆる意味で人性的、もしくは人生的あるいは生活性の強いものとして捉えられたものであろう。琉球民族は明治政府による強制的な処分後、ヤマトンチュになりたくてなろうとしたのではない、ここでもヤマトゥに容易に馴化された上層から押し付けられて、仕方なく同化を推進させられた(標準語矯正、方言札など)、というのが真相である。
併合後の日清日露戦役や15年戦争時代、学校教育は押しなべて方向性を右寄りに取り(富国強兵)、神国皇民化教育が徹底された結果、沖縄戦の悲劇に究極すべく本土人以上に護国の鬼と化し、青少年はじめ県民国民の好戦性を否応なく助長することになる。持たざる国日本が欧米に伍して世界に覇を唱えるには、アジアの弱小民族領域を自家共栄圏版図に組み込んで人的物的の市場化しその盟主となり、一旦欧米相手の戦争となれば最終的には一億玉砕(これが、「悠久の大義に生きる又は死ぬ」、ということだ)の極端な精神主義にたよるしかない道をこの国の上層部は結果的に選んだ。東條英機の戦陣訓(生きて虜囚の辱めを受けず)は驚くほど素朴に人々の中に浸透していた。例えば集団強制死に関しては、こうした教育(同化策や皇民化教育)を直接受けることがなかった老齢者に諭されて(ヌチドゥ宝)危うく集団死を免れた人々がいたという事実がある。一方勿論、死にたくもないのを無理に死ぬために惨たらしく係累の肉体を損壊せざるを得ない悲劇に見舞われた人がいた(この話は我々が聞くと今にして生々しくかつ軍による強制性を伺わせるものがある)。そして何よりも日本軍が存在しない地域ではこの集団での強制死は起こり得なかったと言われる。全ては外から、つまりヤマトゥから来たのである。これが琉球処分の政治的結果悪として捉えられる第一の証拠だ。沖縄戦は、ヤマトゥと琉球を残酷に異種化した(人為的に付加された差別性)両者の関係上最大の、ほぼ決定的な歴史的事件と言える。両者の命運はここで同一民族の中でも明らかに二つの方向に分かたれた。
沖縄戦の教訓として沖縄琉球が否でも学ばなければならなかったのは、軍隊は住民を守らない(住民の食料を奪い取る、壕から住民を追い出して自分らが占拠するなど)、軍隊は住民をスパイ視する(言語が理解できずにスパイ疑惑に陥り住民を特殊視し虐殺する)、沖縄人や朝鮮人軍夫(半島から駆り出された朝鮮人の軍事用人夫)を蔑視する、愚民扱いする、自己正当化する(「おまえたちを守る為に来たのだ」といって食料を奪い住居を占拠し壕を乗っ取る)、などなど、ほぼ、非戦、避戦、反戦、厭戦反軍感情の醸成にしか機能しない事実のオンパレードだ。辺野古に新軍事基地を造るなどとんでもないことだということになる。ましてやこれまで、沖縄がどうぞと言って差し出した基地は一切存在しない。ところがヤマトゥでは沖縄戦のような総力的市街戦を経験してないし、無残に一家掃滅などという悲劇(東京はじめ主要都市の空襲や2個の原爆が齎した市民の無差別殺傷は、明らかな米軍の戦争犯罪、人道に対する罪だ)にもほぼ遭遇してないので、こうした沖縄県民の県民感情など大体において切実には理解できない。「捨石」という言葉が明瞭に伝えるように、同じ国の中で扱い方が180度違っていたのだ。「本土決戦の防波堤」とは聞こえがいいが、結果としてヤマトゥはその後、玉砕も決戦も経験せずに降伏した。まさに降伏のための時間稼ぎ、国体護持の保障取り付けのための人身御供にほかならなかった。沖縄県民は多大の犠牲者(県民の4人に一人)を出しながらこの国の失敗した近代化の尻拭いをさせられた。それもこれも唯一事、天皇制国体の存続のためだ。おまけに戦後直ぐ昭和天皇は下記のごとく「天皇メッセージ」を発している。
同文書は、1947年9月、米国による沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモです。【資料コード:0000017550】
内容は概ね以下の通りです。
(1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。
メモによると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしています。
http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html
(つづく)