沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩606 琉球独立論というもの その2

2015年12月25日 15時45分00秒 | 政治論

 沖縄県乃至県民に対する日本国政府の国家的なDV(ドメステック・バイオレンス---家庭内暴力行為---内国軍事植民地扱い----米軍基地の偏在)は、米軍機訓練に関わる騒音爆音、あるいは恒常的な墜落危険性からくる極度のストレスなど、児童幼児(精神的肉体的弱者あるいは庇護を必要とする未成熟者、乳児、園児他)、高齢者(介護を必要とする老齢者----沖縄戦体験者あるいは戦争体験者におけるPTSDなど)、婦女子(妊産婦等)に対して、日本国政府の国防方針を専権事項として国家優越思潮のもとに(法的根拠がないにも関わらずである----主権在民は何よりも優先される)日米安保を具体的に実施することで発生するものにほかならない。つまり、実際に沖縄県で起きている米兵犯罪等一連の不祥事は、日本国政府の国防最優先方針(住民意思の蹂躙、無視、軽視)から生じた日米安保体制(地位協定)の住民虐待実質が、米軍基地の存在に拠って醸し出している所謂「基地公害」となって現実化しているということになる。

 今さら言うまでもないが、日本国政府はこうした連続する具体的な事実(即ち基地公害による住民ストレス実態)には一切目をつむっている、と沖縄県民には受け取られているし、あらゆる「負担軽減」の真逆な実質(オスプレイ強行配備、辺野古新設基地建設等)は到底県民の目をごまかせない程に露骨で悪質な偽善性を発揮している。県民の国家信頼度はこと米軍基地に関しては極めて低い(日米安保は県民の9割方反対し、一方でヤマトゥでは全く逆の現象を生じている---安保ただ乗り)。特にこの安倍晋三配下の政権が辺野古に関しなりふり構わず民意無視の蛮行に走り始めてから、国家対沖縄県民の対立関係は極度に危険な領域に踏み込んできている(勿論この危険性は国家の方にある----琉球人の最善の、この国による奴隷化回避手段は、自決権の完全保障としての琉球独立以外考えられない、ということだ)。現在辺野古キャンンプシュワブ、大浦湾で連日荒々しい市民拘束、座り込み排除の暴行が不法に不当に続けられている。彼ら政府関係者並び官憲らがしていることは、彼らの言う「市民の安全のため」ではなく、むしろ、腕ずくで暴力的に対応することで脅迫的に強引に、多少の流血は構わないという程度の意識に於いて実行される、未必の故意(完全な意識的行為ではないが結果的犯罪を予測している犯罪的状況)的な国家犯罪である。しかし、これに従事する組織内人間たちには一切の善悪の認知と行動判断は不問に付されて、ただただ忠実に命令通りに動くことだけが要求されている。彼らは抗議する人々の問いかけには一切無言だ。

https://www.youtube.com/watch?v=ysgY_d8pFWY

https://www.youtube.com/watch?v=6wnbtNhq-DM&feature=youtu.be

(目取真俊氏ブログ「海鳴りの島から」引用)

ここにナチス的な犯罪実体が横たわっている。----(所謂貧困層の志願兵問題は米国の病巣そのものを浮かび上がらせているが、「金のために」兵隊にならざるを得ない若者群を徴集して戦争最前線に送り込むことで成り立つ国家安保の残虐性は、安倍政権の米軍補助国軍創成(集団的自衛権行使による米国戦争加担)によって現行米軍同様の悲劇的様相をなぞることになると思われる----我々は既にベトナムやイラク戦争の帰還兵が罹患するPTSDの実態を見せつけられている)。---多くは平凡な仕事人間に過ぎない官憲の「未必の故意」犯罪は、命令に従ってどんな残虐行為も人殺しも暴行もしてしまう、という犯罪であり、事後に(先の大戦のように)結果的に自身の犯罪行為に気づかされる、というような在り様で行われるのだ。この、組織的職業従事者の具体的行為を現場で実現することで成り立つ国家犯罪こそ、今辺野古で行われている埋め立てのための強行工事だ。もしこうした「物言わぬ」人群(思ったことを言動で表現できない人人---命令通りにしか行動できないということ)がなかったら、沖縄の頑強な座り込み抗議行動によって数日のうちに工事は中止せざるを得なくなっただろう。しかし、どちらにしろ、沖縄県の移設反対運動の全世界に及ぶ波状効果は、この国家行為の不当性を告発して止まないのであり、強固で巨大な壁にも似た日本と米国の沖縄に対する強圧的安保体制も「蟻の一つ穴」から脆くも一挙に崩れ去るに違いない。

 問題は、日本国における政治的な責任は結果悪に陥っても誰一人負うことはないし、結果悪の改善更改改革の徹底した実行機能も存在しない。何故か。筆者にもわからない。敗戦後戦勝国米国による日本国の傀儡化がその実際の本質だが、筆者の見たところどうやらこの国の為政者は歴史的に、政治成果について無責任であることを恥じない、又は他の権威に丸投げするという始末で流れてきたようだ。例示するまでもあるまい。日本の近代化は徳川権力の大政奉還で始まったのだが、彼ら武士階級は鎖国によって泰平の世を謳歌したくせに、一旦開国となると途端にうろたえて結局公論の主体を公家又は朝廷に打ちやったわけだ。先の大戦では、極東裁判であるいは各地のBC級裁判で戦勝国基準で責任の所在を掘り起こされたが、日本国自身でこれを追求した実例はどこにも見いだせない。大震災の、取り分け福島原発事故に関する責任の所在も究明されてない(にも拘らず再稼働の話が先行し、実際に再稼働している現実がある。首相は原発セールスに躍起になっているし、原子力政策推進の張本人たる責任政党自民党がおのれの責任を図々しくも棚上げして恥じない)。

 この民族的とも称すべき無責任体質をどう考えるか、ここにも琉球独立の重大なスプリングボードが存在する。この国には理念的に追究された「自由」とか「民主性」というものが根本的にない。元々農耕主体の集合体としてのムラ(村)があり、殆ど祭祀においてしか機能する必要のない「政治」があった。つまり責任主体は村民自身に帰属し、政治は「祀りごと」でしかなく、発出する問題点に於いてその祭祀長が責任を負うことは事実上あり得ないものだった。平たく言えばその日暮らしの集団生活であり、自給自足的な自己責任帰結の回転軸だけがあり、その余はお祭り騒ぎに終始した。統治、とは権力者の都合で決まるおざなりなものであり、暴力と威圧、恫喝と懐柔が全てだった。この非理念的な在り様は、自然発生的な集合体からお祭り騒ぎに「政治」があり、責任主体を個人に帰する当たり前の直接的な「民主性」こそこの国の為政者の本音であり、現行代議制のそれは必ず破綻する、という結果が待っているのである。違憲状態の選挙制度のまま、明らかに正確な民意の反映には程遠い在り様でなし崩しに横行しているのが、この国の「まつりごと」である。そしてこのような状況ではいくら沖縄県が声を大にして叫んだとしても沖縄県民のための「まつりごと」はおこなわれないであろう。

 既に結論は出ている。(つづく)

 

 

 

 


詩596 琉球新報記事  係争委、県申し出却下 辺野古取り消し停止「審査対象該当せず」

2015年12月25日 08時19分56秒 | マスコミジャーナリズム

係争委、県申し出却下 辺野古取り消し停止「審査対象該当せず」

http://ryukyushimpo.jp/news/entry-194238.html

7時間が長いとも思えないが、これだけ議論してこの程度の結論というのは結局出来レースの誹りを免れまい。「門前払い」でなく問題の深さを浮き彫りにしている、ということさ。

国交相決定取り消し求め 辺野古周辺住民21人が提訴

http://ryukyushimpo.jp/news/entry-193916.html