安倍晋三以下日本会議はじめこの国の保守系右翼と、戦前的価値(大日本帝国)の復活を目論む幻想的軍国主義者たちの言い分が、国民的には殆ど理解不能なものだということは、一つには対中脅威の煽動からおびき出された軍事的画策が、差し迫った具体的な危機に関しての単純な論理的筋立てすら見出せない(対弾道ミサイル戦略など)からであり、誰が見ても明らかな矛盾を呈する曖昧な感情論(沖縄米軍基地に関する論拠のない押しつけなど)に終始しているからであろう。
ここには言葉の問題でなく、本来技術論で片が付く政治的な分野に大時代的な雑言を感情的にぶち込んで語る、不幸にも安定多数をつかんで舞い上がった自民党政治屋たちの、醜い先走った狂喜乱舞(政治家が狂喜する国ってどんな国だ?震災被災地、原発被害者、高齢者、貧窮者弱者が人知れず苦しんでいるというのに?)の様子が見て取れるということだ。国民は既に民主政権時に、この国への政治的絶望感を否応なく植え付けられている。政治的絶望とは結局、所謂「代議制民主主義(間接的民主主義)」なるものが制度的にまがいものだった(代議すべき民意、民主を反映しない)という単純な認知に至ったということだ。選挙は単なる集票能力のゲームであり、同時に配金技術の優劣で決まるのだ。おまけに野党の中に自民党と厳しく峻別できるような明確な政治理念に裏打ちされた政党さえ殆どない。結果、55年体制以来、政権は従米保守系思潮に組み込まれた政治家群によって徒にたらい回された、という印象に止まる。
このまがいものの戦後民主主義体制を下支えしてきた、戦後政治の米国主導国家体制を「戦後レジーム」と称してそこからの脱却を謳って半ば積極果敢に改革に乗り出した格好の安倍政権が、表面上過分の支持率を得ているというのは恐らく世俗的な「浮世の習い」(印象操作情報統制による愚民化政策)に過ぎないのだが、当の日米安全保障体制さえ断固として打ち破れないはずの安倍晋三がなんで戦後レジームからの脱却ができるのか、ということであって、彼らが目論む矛盾に満ちた画策からは何事も引き出せないし、吉田ドクトリン以降の対米外交政策方針の根本に潜んでいる病根を洗い出さぬ限り永久に堂々巡りであろう。
外交、とは言えそれは周知のように「傀儡国家」としての、アメリカ合衆国第何番目かの属州が宗主国にお伺いを立てるというような無様な半端者としてだ(今次思いやり予算の有様を見よ)。しかも、基地問題に照らして言えば例えばオスプレイ配備を拒んだハワイ州の言い分がいとも簡単に通ったというのに、沖縄に関しては日本国自体がこれを拒めない在り様で強行配備されたことからも、この国は米国の第何番目の州でさえないというていたらくぶりを晒している。
沖縄県は、前知事が承認したからと、これを取り消した現知事の裁量を無効とする代執行訴訟に巻き込まれた。つまり、日本国政府は、前知事の承認に瑕疵があった故にこれを取り消した現知事の判断を、政府として真摯に検証吟味することもなく(政治の場で当然に話し合うか数か月の審議期間すら設けることなく---1ヶ月の協議は最初から平行線であったし最後の協議の前に既に安倍晋三は首相として辺野古が唯一と声高に言っていた)、なりふり構わず法廷闘争に持ち込むことを躊躇なく選んだのだった。そして辺野古の現場では、こうした経緯など全くお構いなしに寸時もおかず工事関係作業が続行されている。勿論、県民有志活動家の人々は昼夜を分かたず抗議の座り込みを続けざるを得ない(だって、どう考えてもこっちの方が完全に正当な主張をしているのだから)。これに対しても安倍晋三はわざわざ東京警視庁機動隊すら投入して暴力的に排除することを躊躇わなかった。海上ではとうとう、まるで何事もなかったかのようにボーリング調査を再開している(海保の荒くれどもによる暴力的弾圧のもと)---だが、冬の沖縄の波浪は高く荒く作業は思うようには進んでないらしい---。(つづく)