沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩603 学ぶということと考えるということ

2015年12月15日 23時35分39秒 | 政治論

 「学びて思わざれば則ち罔(くら)し 思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」

 どういうわけか物心ついて以来、上記論語の一節は折に触れて頭の中に浮かぶのだが、実際にこれに学んで意識的にそのように実践した覚えはない。そもそも考えるということはどういうことか、あるいは学ぶと言って何から学ぶのか、などと、前提論が先に出て来ていつも徒に空回りするが落ちだった。何より儒教、孔子なんてえものは近代人、現代人にとって封建思想の代表であり、そこから学ぶものなどたかが知れているというのが正直なところだったのだが、何事かに行き詰るとどういうわけかこの一節が頭の中に浮かんでくる。ということは、この文言に含まれている何かがやはりある普遍的な価値を持っているのかな、と思わないわけにもいかなくなる。「少年老い易く学成り難し」(これは孔子でなく朱熹の漢詩にあるものといわれるが、事実は定かでない)、というのもこの頃日増しに痛切な実感を加えるようになってきた。

 孔子という人は専ら系統的な学問を修めたわけでなくむしろ独学の人で、その学も思想も具体的な実社会や彼が生きた時代に近い過去の中国古代史に着想して深められたらしい。勿論筆者など処世訓(孔子は処世訓を垂れたのではあるまいが)なんてえものは馬鹿にしているが、あらゆる外界からくる一種のストレスには相応の対処法の必要性を実感しているので、「修身」という古めかしい言辞はともかく「妄想」や「独断専行」といった、偏向的な個人性自体が誘引する弊害、障碍、あるいはストレスは極力排除しようという構えとなる。言って見れば、自身がしていること、言っていることの良し悪しが明瞭に確信されている場合でなければ、どうにも尻のあたりが座り心地の悪いまま無下に時を過ごすはめになり、後悔しきりとなるわけだ。そのとき上記の言葉が思い浮かばされるのである。

 ただ、思うに人が生涯で本当に確信が持てることなど一つもないと筆者は思っているので、何事にせよ不安定なグラグラの椅子にへばりついて生きさらばえている(これは確かカフカがどこかで言っていたことだ)という確信めいたものがある。これは一つには人が確実に死ぬ、ということと、死ぬまでは生きることも確実である、ということがただ二つだけは言えることで、生きている状況にあってもそのようにしか確信できまいということだ。

 で、結局不可知論に舞い戻ることになる。人性の物事を不可知とする理由こそ上記の孔子の言葉にピッタリ符合する。孔子はその生涯に様々な為政者と接しているが政治的な業績を上げるべく長く仕官したことは遂になかったと言われ、失意のうちにその許(もと)を去ることに終始したらしい。彼のまともな思想や哲学、あるいは学問そのものが生かされる道は胡散臭い政治の世界にはあり得なかったということで、逆に言えば今の恥知らずな政府寄り御用学者どもの不誠実さなど推して知るべしということであろう。政府を批判して諌止する、あるいは思いとどまらせる、といったことを真面目に実践しない現今日本の似非学者たちには辟易するが、あるいは最初からまともなことが通用する仕組みにはこの世はなってないともいえる。だから不可知において考え行動し思考することで、辛うじて危機を回避し暗然たる生存を少しばかり穏やかに寛がせることが出来よう、などと思ったりする(つづく)

 


詩596 沖縄タイムス ツイート 辺野古現在

2015年12月15日 16時26分19秒 | マスコミジャーナリズム

58分58分前

12月15日午後1時 辺野古集落上空をオスプレイが20分以上旋回しています。オスプレイが配備されて3年、このバラバラバラという騒音と振動には本当にまいります。あまりに低空なので墜落しないかと不安になります。

https://twitter.com/times_henoko

埋め込み画像への固定リンク


詩596 琉球新報記事  新基地阻止へ結集 「オール沖縄会議」発足に1300人

2015年12月15日 06時48分55秒 | マスコミジャーナリズム

新基地阻止へ結集 「オール沖縄会議」発足に1300人

http://ryukyushimpo.jp/news/entry-188647.html

辺野古新基地護岸、年内にも着手 本体工事の初段階

http://ryukyushimpo.jp/news/entry-188648.html

辺野古周辺住民、提訴へ 国交相の決定取り消し求める

http://ryukyushimpo.jp/news/entry-188649.html