沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩409 「自由か、しからずんば死を」ー沖縄の声

2013年07月06日 07時20分37秒 | 政治論

 高江で先頃完成した6個中一個のオスプレイヘリパッドに関し先行運用の可能性が沖縄防衛局から示唆されている。何時になるかは知れぬが、もし実際運用されるとなれば、高江地区住民は騒音爆音墜落危険性の精神的ストレスに否応なく叩き込まれ、当然またこれに加えて自然環境破壊傾向は一段とすさまじい勢いでこの「自然遺産」候補地を侵攻することになる。

 ここでは、勿論人間が理念として掲げうる精神性の価値ある表象などおよそ見いだせない、異国の軍隊によって土足で踏みにじられる辺境の人口希少地的運命があるだけだ。

 彼ら米軍兵士たちが気がつかない非人間的行為の国家的強行が、弱肉強食・優勝劣敗の野蛮であけすけな具現化として人類の歴史に刻まれることなど、畏れも危惧も悲しみもなく、単純な時間の経過としてしか受け止められていないはずだ。

 それはかつて、2個の原爆を躊躇いもなく市民の頭上に炸裂させたあの「鬼畜」行為に関し、「仕方のないこと」で片付けられる米国の「愛国的」国民性が、多かれ等しく共有する「全体主義」の無意識な自動機械として、このアメリカという国を形作っているという意味だ。

 参議院選は自公勢力の過半数突破は間違いないらしい。政策内容はともかく集票能力だけ突出した「数の論理」がまかり通り、憲法違反の選挙制度が道理を引っ込めて無理を通す強権政治の再来である。

 日米両国の劣化した軍事政治両面攻撃が、この国の住人を混迷の渦の中に自己喪失させる傾向へなだれ込もうとしている。「非暴力不服従」の大衆行動だけが、こうしたなし崩し的な国政の横暴に立ち向かえる唯一の手段であり、ここ沖縄県では普天間、辺野古、高江など、水際で国家権力に抵抗するごく当たり前な大衆運動が、連日炎天下老体に鞭打って継続されている。

 新潟県知事の東電に対する当然の、柏崎刈羽原発再稼働拒否の意思表示を他県の首長たちは自覚を持って見習わねばならない。君たちの主役は君たちの土地に住する人民以外にない。

 沖縄県知事、東村村長の高江ヘリパッド工事容認とオスプレイ配備反対の自己矛盾は直ちに解消せよ。要は沖縄にあっては「安保容認」こそ基地問題の真逆の反人民的姿勢にほかならず、「辺野古は時間がかかる」という知事の言い方は、むしろ敵に利する態度表明であり、県民は自身の県土を守護せんとするならこういう知事を選んではならない。

 日米両政府による選挙謀略が屡々反民主的な結果としてこの国の戦後史を作ってきた。これからもそうだろう。こんな国のどこに明るい希望や未来への確かな歩みを見いだせるか。奴隷の身分は「慣れてしまえば」どんな不都合も矛盾も長持ちするものだとは、古来言われてきたことだ。「自由か、しからずんば死を」。人間として言挙げするなら、そういうしかないのだろう。(つづく)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。