沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩419 「おきなわ」における文学の必要性

2013年07月25日 22時14分57秒 | 政治論

 「おきなわ」の、総じて人間的な営為というものが何処に究極するか、ということは少しく興味の惹かれる事案ではある。

 それは、勿論それほど単純なものでないことは容易に推察できる。例えば怒りを表現するに笑いで報いるとか、悲しみを内包しながら優しさで応ずるとか、果てない憎悪をただ「怒」の一字に集約するとか、こうした表面上の情緒的晦渋さというのは、そのまま「おきなわ」の人間的な豊穣を暗示する一方、元々そうでなくてもよかったはずの、この地域のヤマトに関わる歴史的経緯を何となく浮き彫りにする。

 どちらかといえば琉歌の特異な哀調には「悲鳴」の響さえ聞き取れるのだが、一方では、真夏の海上の蒼穹や、透明に輝く海原に酔いしれる吐息とも聞こえる、というふうに、第三者的な耳目には不可触な繊細さとして受け取らざるを得ない対象としてある。

 琉舞の佇まいは、日本舞踊さえ知らないものにはやはり不思議な音響として、いつまでも余韻を残すが、この微かな震動のような足運びなど、同様に、琉球処分以来の「同化策」の機械的な野蛮さに曝されてさえ無慙にも生き残ったというものなのだろう。

 同一国人の意識は無反省にその歴史を無視してでも所有できるが、アメリカ合衆国の根源的な人種差別傾向(先頃の例の陪審員裁判での黒人差別にも見られる)からくる、沖縄琉球=ヤマトによる被抑圧民族認知が戦前から戦後一貫してあったのであり、軍事植民地として沖縄本島を我が物顔に使役している風情に影響されて、我が国の本土にある同一国人たちにおいて異族視心理を醸成したと見える。

 というよりも、米国軍事支配の圧倒的な専制力こそ、傀儡政府たる日本政府の沖縄犠牲容認と本土人の無頓着を、なんの顧慮も反省も改善意志発露もなく定着させたと言える。

 屡々牛耳っているのが外務防衛官僚たちと決め付けているが、所詮はこの国の本土人が持つ不人情、非人情、あるいは益々顕著となる青少年を蝕むリアルエゴイズムが因源であることに違いはない。

 動物的エゴイズムが、抑も戦後復興から高度な経済成長の末培養した獣化された行動基準によることは、「エコノミックアニマル」神話にみるように明白なのであって、彼らは例えば狼少年並みに、外交のイロハから教示しなければ容易に人間らしい対等な付き合い方のできない不具的状況にあり、勿論石原老人のような意味もない放言に終わる復古主義に陥るのであり、現政権の展望なき軍国主義、つまりは戦前の参謀本部並みの「やっつけ仕事」にイキガッテイルといったテイタラクだ。

 沖縄を救済するのは多分沖縄自身だが、究極する情念の形象化において「文学」は必須と言える。(つづく)