何故、国家主義は否定されなければならないか。(主権を人民以外に置くことは、王制など世界史上の常識としては、恐らく今後徐々に解消されていくのであろう。)
国家主義とは、主権を人民以外に考慮することであり、現代では屡々この考慮が欺瞞的に「国家の専権事項」という言い方で括られ、実質上、人民から主権を強奪する内容の国家主義的相貌を有している。
国家対人民という対立軸は実際上はこの「考慮」においてのみ存在し、この「考慮」は「政府」乃至「国会議員」乃至「政治家」によって公的な性格を付して、公的な力学で我々の目前に示されるが、これが示されたとき既にそれは「専権」的に法的に決定づけられている。
この公権力の圧倒的な行使は、人民のあらゆる「自由」に基づく権利行使ばかりか基本的な人権をさえ凌駕する。何故ならそれは国家の専権であり、「考慮」された方針は人民の意を超え、人民の知を打破し、勿論人民の情を淘汰する。
つまり国家主義という「考慮」は、構成する人民の存在によって生じるにもかかわらず、政治家(もしくは国家主義者)の脳髄の中にしか生じない故に、もともと自然契約的には存在し得ない「幻想」であることが原則的に定義される。
勿論人民が何らかの理由で幻想的にそれを望んだ場合にも同じことが言える。幻想が武器を生み軍隊を組織し戦争を起こすこと(人民が多方面からの強制的呪縛によって自ら銃を取るということもある)は不思議なことだが、これが経済的な要求と結託すれば自ずと頷けることだろう。これを産軍複合体というわけで、この両者の関係性は実に一筋にハガネのように強力な磁界を持っていて、幻想に過ぎない「仮想敵」に始まり、「利権」保存のためのあけすけな内政干渉、軍事力行使による傀儡政権のでっち上げなど、その例証は戦後及び冷戦終結後、アメリカ合衆国の覇権行為に顕著である。
我々の国日本で、この米国と結んでいる安全保障条約は、まさしく「幻想」の産物であり、吉田茂という政治家の脳髄に下った、「経済復興と成長路線」のための米国軍事力依存「考慮」がそれだ。これは人間の営為が経済活動にある、という仮設に則って、専心これに注力するために、国防を他国の力に依存し、軽負担で走りきろうという考え方だが、事実は他国である米国の軍事的思惑に乗せられ、極東における防共最前線という西側陣営の一翼を担わされ、米ソの冷戦期を架空の「核の傘」に守護されながら、驚異的な戦後復興と経済成長を遂げたのだった。
しかしその後バブルの崩壊、冷戦の終結、米軍再編、安保構造の変更、国威凋落にみるように、結局はバランスを欠いた国家主義的思考法が当然に招く、矛盾に満ちた国情を醸しだし、米国依存体質から抜け出せずに米国傀儡性を容易に許し、二大政党制やら政治主導、戦後体制からの脱却など、重大にして不可欠な政治改革さえ異国の思惑に牛耳られてこれを果たせず、安倍晋三のような中途半端な軍国主義亜流の勃興を許す羽目になった。(つづく)