沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩421 原爆と原発

2013年07月27日 09時25分26秒 | 政治論

 風化というのは、現広島市長(自公推薦平成23年以降)の、「原爆と原発(乃至原発事故)は違う」というような発言に、68年目の今にして出会わねばならない我々人民にとっては、まことに痛切な悔しさとともに感得せざるを得ないものがあるのだが、この市長を選んだのがほかならぬ広島市民である以上、こういう殆ど錯綜した意見というのがこの地域の一方の流れには顕著な思潮なのだとしか受け止めようがない。

 明らかにこの市長は誤った認識乃至認知状態に陥っているのだが、「ヒロシマ」の首長の言説、ということになると風化とか言っている場合でなく、そこに通底する邪悪な戦後的日本性が立ち現れるので、総じてこの種類の問題については小出裕章助教の「原発ムラ住民残らず刑務所にぶち込め」という心情発露にしか答えが見いだせないでいる。

 広島長崎の原爆投下は米国安全保障政策における、殺人兵器の大量人体実験にほかならず(勿論大戦終結のための必要条件であろうはずもない)、原発は無際涯の危険性と永久的に処理不能な害毒浸潤を準備する時限装置であり、と同時に、欧米はじめその追随国家が核兵器を持続的にかつ効率的に製造していくために、維持されなければならない軍事母胎であり、エネルギー問題そのものにさえなりえない人類滅亡手段である。

 世界中が狂っているのだ。かつて大陸間弾道弾のボタンを押すのは気違いだけだと言われたのだが、それが現に国家第一責任者近く存在する以上、狂った世界の後押しでいつでも「手元を狂わせる」事態は起こりうることだ。人類が滅亡しようが一地域が消滅しようが、「死すべき運命(mortal)」という人間にあっては当然の帰結にすぎないのだが、それをしも度外視してなお、彼らに対しては憤激せざるを得ない。(つづく)