沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩407 日本の生き死に 6 日本の現実

2013年06月04日 07時18分10秒 | 政治論

 「私は仮説を立てない「」とニュートンは言ったというが、科学的証明においての仮定、仮想に基づいた理論構築の非実証性について述べたものだ。

 「仮想敵」も似たようなもので、沖縄海兵隊存在理由を「抑止力」「地政学」あるいは仮想の敵としての「共産主義勢力の攻撃」といった、現実に生じていない事象、事柄について仮設を立てて、沖縄県民に基地新増設海兵隊展開の必要性をでっち上げた日米政府の欺瞞性が露骨に示される論拠となる。

 これとは別に、「現実主義」というのは当然「現実」に対する最初の前提となる実証的展望鳥瞰が示されて初めて主義主張足りうるものである以上、例えば吉田ドクトリンが、人間における「経済活動」を最大の主軸と位置づけ、これがためには一意専心してことに当たるべく其の余をなるべく軽負担化するのが理に叶うという、一見合理的と看做された日米同盟他の存在理由ではあったが、それだけではなくこの同盟には敗戦国と戦勝国連合の相克相関関係が如実に反映されており、決して「軽負担」でも双務的互恵関係でもない、明らかに不平等な外交的従属性乃至外交的朝貢関係(日米地位協定)が存在するのである。

 現実には!お前らは金儲けでもしていろ、代わりにお前たちを守ってやるからたんまり金を出せ、ということにほかならない。財政的には結果的に「国防費」は同盟維持費を含めて軽負担どころか悠に通常の軍事費を賄うだけの大型予算に膨れ上がった(思いやり予算)。

 「軽負担」の一面には「国防意識」免除というのがあったのだろうが、先述のように全てこじつけ論であった(抑止力のうそ)。日本国民は日米同盟に守られているという幻想の下(核の傘)戦後を突っ走ってきたが、驚くべき「ノー天気」に無防備なエコノミクスアニマル路線をひた走ってきたわけだ。

 今もまたまさしく無防備に走っている。それは憲法9条のことではない。国際常識としての自衛隊=軍隊という位置づけに関わらずその自衛隊は「戦争ができない」し、日米軍事同盟は即戦的に発動するものでもない。当然自衛隊の「士気」は戦時のものでなく「国防意識」を持たない「災害救助隊」にすぎない。(つづく)

 


詩407 日本の生き死に 5 日本の現実主義

2013年06月02日 20時14分27秒 | 政治論

 高坂正堯の「宰相吉田茂」や「現実主義者の平和論」が、所謂戦後日本の敗戦国としての現実への掛け値なしの視点を据え置こうとした試みであることは当然了解できることではある。

 彼はハーバード帰りの学者であり、恐らく戦後日本の現実路線を理論的に保証した無類のオピニオンリーダーだったことも明らかだが、その理論的中枢は「現実主義」における相対主義であり、かつそれがこの時代展望へアクチュアルな可能性を投機した革新性において本質的とみるならば、必ずしも保守陣営のブレインとなって政策提言助言者の地位に甘んじる必要はなかったとも言える。

 眼高手低も極まれば固陋に堕する。だが多かれ少なかれ人はこの修羅の現実を掻い潜って生きていくのだ。敗戦後焼け跡から出発した日本丸は国際社会の中で、かつて松岡全権が国際連盟議場を5尺の小躯で脱退したあの威勢とは裏腹に平身低頭、よくよく陳謝し隠忍自重して事に処して行かざるを得ないはめになった。

 しかし国家がそうすることと個人としての国民が如何に生きるかは真っ向から別物になってしまう、というのが真相ではある。そもそも戦後世代の我々にとって「敗戦」と「戦争責任」、あるいは負い続ける「贖罪」とはどのように解釈すれば「国家」とともに「国民」の何か、になるというのだろうか。

 戦後世代の我々の中にはあの戦争の光も影も実はほとんどないのだが、バーチャルリアルには意思的にこれを再現することは限りなく可能な時代を迎えている。我々にある「現実」は可能な限りそれに近いものとしてある、言ってみれば追体験可能な当時の「現実」そのものを何度も繰り返して認知し、これを認識し経験化することになる。

 ではいったい現代の戦争無知世代は、かの時代のいかなる人群、身分境遇を共有するのがよいのだろうか。あるいは全くの部外者として観照するのが正解なのか。歴史学の範囲において、史実として論う行為には特定の条件が付随する。つまり学問なのか否かだ(そこに現実と仮想、乃至仮定という分岐がつきまとい、その相克から逃れようもない)。

 そこに政治や外交が絡んでくると途端に事実関係の正確な検証は不可能な話になる。従って、我々がすることは史実の実証ではなく、時代の要請に沿った自己自身の身の振り方に過ぎないということになる。これを哲学的には倫理観と名づける。同様に「現実主義」の限界はそれが主義を出ないものである以上、そこに政治外交が絡めば完全な「相対主義」以外ありえないことになり、すべては仮定の話になってしまう。(つづく)


詩407 日本の生き死に 4 欧米価値観からの離脱

2013年06月01日 10時07分23秒 | 政治論

 大方疑惑の目で見られている国連のUNSCEAR(アンスケア)が出した「福島第一原発事故の健康影響はない」という目を疑う結論は、この調査機関が本質的に原発推進の立役者ども(核実験禁止世論への牽制を意図する連中)が作った機関である以上、決してまともに信用してはならないものであることは間違いないが、これに関連するネット記事あるいは大手マスコミの無批判な情報流布が、ある種の風化乃至危機感の希薄化を、なにがしか策動する気配に満ちているという、現代世界が抱えている精神の深い闇というのに気づかされる一面を見逃すわけには行くまい。

 そもそも2年程度の調査で当然減衰する外部線量の多寡のみを根拠に、かかるでたらめな調査結果を早々と出す異常さに、政治的情報操作の臭いがプンプンするのは否定できまいし、国連という大げさな組織が、世界に向けて政治的意図により半ば嘘に近い情報を発信するという、この世界精神の堕落を象徴するような傾向に欧米(大戦戦勝国連合)の理念的な没落ぶりを明瞭に見て取る歴史学的視野を持たない訳には行かない。

 一方同じ国連(拷問禁止委員会)が日本の従軍慰安婦問題に対し「勧告」を行うという記事がある。戦勝国連合が先の大戦にまつわる日本の、公的な場での歴史的事実への改ざん傾向を危惧するのはある意味当然ではある。しかし「人種差別撤廃委員会」同様にこの機関にも「勧告」以上の制裁性は皆無であり、何のために存在するのか疑問に思われる。

 沖縄県の不当に偏頗に押し付けられている米軍基地負担に関して「人種差別撤廃委員会」は日本政府に「勧告」したが、恐らくはおざなりな調査書類検証程度のところで半ばアメリカに配慮する質で終息している。何のために存在するのかさっぱりわからない。つまりアメリカ合衆国による一極集権国際情勢のなかに、理念的な、厳格な独立した意見を実効力を持って開陳し具現化する機関主体の誕生がアジア東洋から望まれるってえわけだ。(つづく)