何故日本は世界性から脱落することになるのか。この問自体に答えがある。
抑もこの島国に古来異人種、他民族、攻撃的外敵、が造作もなく侵入することなどありえない話ではあった。その比較で言えば絶えず北方からの外敵に狙われねばならない中国などは安閑と自己満足に浸っている余裕などない国情にあった。
敵は、身内にさえ忽然と立ち現れるような明日をも知れぬ生存競争下にあって日々の「自己更新」は切実な要請であったのだろう。それは自身の座している所が即座に「世界」であるべく練磨される命の剣そのものであった。「中華」という概念、即ち「世界性」という人生観だ。
江戸幕府において封建的中央集権国家体制を完成させるには、「鎖国」は自然地政学以前に人為的リストラクチュアのため、どうしても要求される安全保障要件だった。
将軍は日本国に関し美辞麗句で着飾る必要性にない。彼の人生観は、種族保存の一点にしかない。さてここに言う世界性とは何か。
酷薄な現実は、生存の営為をもってその持続性永遠性に絶対価値を置かざるを得まい。一家はその家名保存に、一国はその威勢の維持に、ひたすら加担し続ける。これを獣性への仮託、又は本能への輪廻的回帰と名付けようか。
当然ながらそこに世界性は皆無である。あるとすればひたすら種付けに勤しむ動物が一匹特権的に異性を独占するということ、つまり人間の究極をリピドーに仮託し(分析された精神でなく)繁殖を合目的化することである。これはもしかすると200年以上を安泰に治世した江戸徳川幕藩体制の、単なる印象に過ぎないかも知れない。
日本史上唯ひとり世界性の可能性を示したのは聖徳太子であろうが、それ故に太子の生涯事跡伝説奇談には神格化した空気感が漂っているが、世界性の究極表現が「宗教」じみてくるのは致し方ない。
イエス、ムハンマド、仏陀、言わずとも、この、人とも神とも名づけ難い奇跡の具現者は彼らの言動自体が世界性にあった。だが「あなたの心の中に神がいる」としたイエスは嘘をついているわけではない、「人の子」はイエスだが「女から生まれたもの」は誰でも「人の子」にほかならず、故郷の地でイエスは「彼も人の子ではないか。マリアとヨセフの息子じゃないか」と言われその宣教活動の実をあげ得なかった。これを何げに聖書は素通りしているが、この事件を評価するとつまりは「世界性」からの脱落にほかならず、誰でもその出自からは生命の原基以外に如何なる価値も生み出し得ない。(つづく)