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ブログを使用しての種々の論考

詩407 日本の生き死に 13 世界性

2013年06月18日 10時30分35秒 | 政治論

 大日本帝国の敗戦は、欧米流に言えば戦争行為としてはありきたりな一事件に過ぎず、例えばアーリア人絶対主義のナチスドイツが、暴力と凶悪性、犯罪的な排他主義に縁どられた稀に見る反世界性に満ちていたというのと比較すれば、泥沼の日中戦も真珠湾、南方戦線も、通常の戦争行為として見られてなんら違和感を覚えないものと看做される。

 この見方考え方においては、戦後日本の歩み方についての「自虐史観」という印象も少なからず肯えるものなのだが所詮印象に過ぎず、むしろ消極的自虐史観という評価がしっくりくる。

 この消極性にあっては官僚的発想を予感するものだが、一般的には「敗戦」は「敗北」であり「(戦勝国に)何をされても大方は受け入れるしかない」という本音に落ち着くのであり、そこに越えられない人間的姿勢を見出すしか方途はないということになる。

 一方9条の「戦争放棄」はこのこととはなんの関係もない。つまりそれこそが積極的歴史観であり、戦争の持つ「世界性」への「申し開き」にほかならず、言ってみれば世界に対して「申し訳ありませんでした。私たちはもう二度と戦争を起こしません」と宣言したのだった。

 これを、アメリカ合衆国等連合国が日本国に押し付けたわび証文と見るのが現憲法改悪グループの見方考え方であり、彼らの中に欠けている「世界性」から、史実改竄、「資料が見当たらないから事件はなかったことになる」という歴史学的判断のミステーク、というあられもない醜態を晒すことになった。

 彼らは大嘘つきどもだから、国民を搦手から徐々に囲い込み、がんじがらめに縛り上げて、やがて人々が気がつかないうちに戦場に駆り立てられるという結果へ導くのだ。

 世界の常識は、日本国は既に自衛隊という軍隊と日米軍事同盟という戦争行為準備段階を完遂し、いつでも戦争ができる国にする法整備段階を経過していると見ている。

 従って安倍晋三という軍国主義者は、時宜を得て(その復古的政治思想の具現化のため)再登場したのであり、戦争無知世代が大半である、その他の「軍国主義亜流」どもがこれに追随して、現今「日米安保堅持」論者の土性骨を形成しつつある。

 日本国は勿論単独で戦争をするエネルギーを有しないから、国防軍=自衛隊は米軍の補助部隊にほかならず、彼らの実戦場は今のところ災害現場以外にない。しかも喧伝するほど自衛隊が、組織的効率的効果的救助能力を遺憾なく発揮したかといえば、民主も自民も「政治機能不全状態」を脱しえず、この政府の指揮系統では恐らくは「人間らしい」難民救難事業は途絶してしまっている。

 原発再稼働、原発輸出、が「フクシマ」を通常の災害地にしてしまうことは目に見えている(地域特化の限定処理)。「フクシマ」から発した被爆国日本の宣言性がここで無様な失墜という事態に至った。安倍政権がした犯罪的政治行為だ。