「私は仮説を立てない「」とニュートンは言ったというが、科学的証明においての仮定、仮想に基づいた理論構築の非実証性について述べたものだ。
「仮想敵」も似たようなもので、沖縄海兵隊存在理由を「抑止力」「地政学」あるいは仮想の敵としての「共産主義勢力の攻撃」といった、現実に生じていない事象、事柄について仮設を立てて、沖縄県民に基地新増設海兵隊展開の必要性をでっち上げた日米政府の欺瞞性が露骨に示される論拠となる。
これとは別に、「現実主義」というのは当然「現実」に対する最初の前提となる実証的展望鳥瞰が示されて初めて主義主張足りうるものである以上、例えば吉田ドクトリンが、人間における「経済活動」を最大の主軸と位置づけ、これがためには一意専心してことに当たるべく其の余をなるべく軽負担化するのが理に叶うという、一見合理的と看做された日米同盟他の存在理由ではあったが、それだけではなくこの同盟には敗戦国と戦勝国連合の相克相関関係が如実に反映されており、決して「軽負担」でも双務的互恵関係でもない、明らかに不平等な外交的従属性乃至外交的朝貢関係(日米地位協定)が存在するのである。
現実には!お前らは金儲けでもしていろ、代わりにお前たちを守ってやるからたんまり金を出せ、ということにほかならない。財政的には結果的に「国防費」は同盟維持費を含めて軽負担どころか悠に通常の軍事費を賄うだけの大型予算に膨れ上がった(思いやり予算)。
「軽負担」の一面には「国防意識」免除というのがあったのだろうが、先述のように全てこじつけ論であった(抑止力のうそ)。日本国民は日米同盟に守られているという幻想の下(核の傘)戦後を突っ走ってきたが、驚くべき「ノー天気」に無防備なエコノミクスアニマル路線をひた走ってきたわけだ。
今もまたまさしく無防備に走っている。それは憲法9条のことではない。国際常識としての自衛隊=軍隊という位置づけに関わらずその自衛隊は「戦争ができない」し、日米軍事同盟は即戦的に発動するものでもない。当然自衛隊の「士気」は戦時のものでなく「国防意識」を持たない「災害救助隊」にすぎない。(つづく)