例えば東日本大震災はこの国にとって本質的にどういう意味を齎した事件なのか。
新潟県知事が、福島第一原発事故検証の結論が出ないうちに柏崎刈羽原発再稼働の是非を問うことはできない、という見解を示したのは、極めて常識的なものである以上に、原子力規制委員会への強烈な「ダメ出し」であり、国の原子力政策の基本的な姿勢への自治体からの不信任動議であり、抑もこの未曾有の放射能被害を人為的に造出した張本人たる自民党政権への有罪告発なのだ。
然り、福島第一原発事故の人為的犯罪的性格について日本国の人民は、人民裁判の立ち上げを論うべき責任がある。官邸前でシュプレヒコールを上げるのは結構だが、「蛙の面」にすぎない日本国宰相にいくら「小水」をぶっかけても、彼又は彼らは同じことを繰り返し強行するだけの話だ。
沖縄県はこれがために戦後の県民人生を「煮え湯」と「冷水」で待遇させられた。司法権が腐りきっているうえに、立法府の徒輩は党利党略、政争と、愚にもつかぬ非本質論議に血税を浪費する大泥棒どもであり、今やこの国は「人間の住む国」ではなくなった、人間が住めない国に成り下がった。
とりわけ福島県は文字通り、まともに人間が平然とその生活と生存を不安なく継続する何らの保証も到底得られずに、仕方なく住まわされる土地になってしまったし、その近辺周辺乃至ほぼ東日本の大半を、放射性物質の量的計測のうちにおっかなびっくり暮らす地域に貶めた。
未だに臆面もなく群を成す「原子力ムラ」集団の犯罪的無責任が、何のおとがめもなく忘れ去られるなら、この国の国としての生命は尽きたのだとしか言い様もない。こうした犯罪的人災に対する劫罰は神の領域ではなく、我々人民による罪状明示如何にかかっている。
一方こうした非人間的な国柄に落ちたこの国は、その根本をアメリカ合衆国という異国の様々な干渉と恫喝、威圧、謀略、植民地支配意思によって牛耳られているということは既に指摘されていることであるが、就中日米安全保障条約という、沖縄ほか数箇所が押し付けられている以外は、ほぼどこにも不動産提供を拒否されている幻想的軍事同盟が、「破棄通告」のみで解消する外交上極めて単純なものにすぎないので、これがために人民が強いられている幻想的安保税負担を取り払い、真に自国の現状に向き合い、人間的情調の回復に務めるために、即刻安保の破棄へシフトすべきと心得る。(つづく)