浜の真砂が尽きるとも世に泥棒の種は尽くまじ、は大盗石川の五右衛門が辞世の一節らしいが、「悪」というものが根絶やしになることも決してあり得ないだろうことはいかにも頷ける事実ではある。太宰治は「家庭の幸福、諸悪の根源」とか言っていたが大きにその通りではないか。五右衛門も政治家も凶悪犯ももとは「家庭」から生じたモノに違いはない。人の世の百鬼夜行魑魅魍魎が跋扈するのも「人の子」を出自とすることに相違はない。だから元を正せばまさしく肯んぜない赤児の姿をしているに決まっている。純粋なものが不純に染まり徐々に悪へとなだれ込むのはむしろ自然の理である。従って我々の戦いは自己自身に立ち返ることでもあり、「お前の敵はお前だ」というパラドクスを噛み締めることになる。基本的な現実認識の初めはここにしかない。政治が執り行える範囲に人間に関する本質的試みがあるとは誰も思わないだろう。この国の大戦戦後の歩みには敗戦国という不純な条件が付き纏った。敗戦という事実は国家の戦後的歩みをどのように縛り付けたか。しかしその国の民はいかにして敗戦と関わり条件付けられ、自身の生活生存全般にその影を、どう落とすものなのか。例えば靖国に合祀された戦犯たる7人の国家指導者が死をもって断罪された事実により、我々はいかなる戦犯的責任からも免罪されたことになるのだろうか。国の民は国の過ちを全く与り知らぬ政治的軍事的専従行為として切り離し得るものなのか。(三島由紀夫がかつて朝日に書いていたが)「愛国心」は恋愛のようなもので、昭和天皇なんぞはどう見ても恋愛の対象足りえない、少なくとも戦後世代のうちにかかる熱烈な愛国心めいたナショナリズムが浸透するとは思えず、あらゆる右翼的言辞に大嘘を発見するのはむしろ容易ではある(ゲテモノ食い、蓼食う虫の類なら話は別だ)。愛せない国柄(敗戦後愛せなくなったという事情もある)に面してどうやって我々の先達が犯した罪過の一端でも引き受けられようか。しかし多くの局面で世界の外交的状況はこの国に、従ってこの国の民にさえその負の遺産を誰ということもなく負わせる形勢を醸し出している。これはまさしく第一に国内での問題提起としてこの国の維新以来の総合的な検証が不足しているということを裏付けているのだ。(つづく)