沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩569 沖縄移住者の勝手な想像 4

2014年10月27日 15時51分37秒 | 政治論

 楽園追放はアダムが禁断の知恵の実を齧った故に劫罰として神の手でなされたように、原子力は、あるいは第二のリンゴ、楽園追放劇第二幕のオチだったのかもしれない。しかし同じ「知恵」としての物理学的所産だったわけでその意味では原罪(知を得ることで招くスパイラル)が今も人類を永遠に「死すべき運命」として呪われた存在たらしめている、とも言える。如何に抗おうとも人は高々80年しか生きられない。その生き死にのなかに繰り広げられる人生劇場が何ほどの物か。児孫のために考慮するということは言い訳に過ぎないか。我々の良心というのは「原罪」に対してどのようにあるべきか。神を持たない我々にとって劫罰も僥倖もこの世の束の間の遊び(すさび)にすぎないか。歯痛すら一瞬楽しんでいる人間にとって拷問は何の意味を持っているのか。生きる、という拷問こそ最大の劫罰ではないか。死すべき運命、とは結局生きることを否定し死ぬことが望ましい、ということ、生まれ出るべきではなかったということ。罪作りな生を最初から断ち切ることが最上だと。彼等、若くして「死刑になること」を望んで多人数を殺傷した犯罪者たちは、我々のすぐ近くに精神的に「死」と戯れている。

 恐らくは、机上の作戦会議においては、トルーマンの決断に、一瞬にして蒸発し、又むごい余生を病的に過ごさねばならない原爆犠牲者に対する普通の想像力というものはなかったであろう。既に勝敗が決している戦争において使うべき武器ではなかった原爆を、敢えて使ったこの米国大統領は、本質において人類のなかの一人種(正確には社会的弱者、政敵も含まれる)の抹殺を企んだヒトラーと何らの差異もなかったのは間違いない。しかも「原罪」に生まれついた我々の誰もがその知のスパイラルにおいては同様の過誤を犯しつづけている。複層化する核エネルギーに関する思惑が日米の外交関係には不条理な陰を落としている。蟻地獄か底なし沼かに足を突っ込んだ彼等はヒロシマナガサキに始まって第五福竜丸、沖縄返還欺罔、原潜原子力空母の寄港と異常放射能漏れ、54基の原発、フクシマの無際限の危機、真っ先に指示された80キロ圏内在日米人避難、活動期大地と大地震、大津波危機に今後不可測に近い確率で残置されている日本列島、といった、事実上連関している物事の累積に戸惑いを隠しきれないのである。(つづく)