沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩569 沖縄移住者の勝手な想像 2

2014年10月23日 11時31分00秒 | 政治論

 在日米軍は、異国の軍隊駐留主体としては日本国土における唯一の存在(国連軍駐日武官、竹島、北方領土は例外)であり、米太平洋軍傘下の陸海空、海兵隊、沿岸警備隊5軍全てが展開する(ウィキペデア)。主な米軍基地は三沢飛行場、横田飛行場、横須賀海軍施設、厚木海軍飛行場、岩国飛行場、佐世保基地、嘉手納飛行場、普天間飛行場などであり、近畿、中京、日本海側と四国には殆ど存在しない。米軍専用施設(13都県に置かれている)としてはその74%が沖縄県に集中する。この他日米共用施設米軍一時利用可能施設があり、これら3種の総計でその面積を見ると北海道が全体の34%、沖縄が24%の面積を提供していることになり、その他の地域では静岡(8.68%)、大分(5.49%)以外は全て5%以下だ。首都圏に展開する米軍には陸上部隊は存在しない。因みに沖縄には25の専用施設、8共用施設、4一時利用可能施設があり、北海道に専用施設はない。他に最多で神奈川に9つの専用施設、長崎に6、広島に5、東京に5、埼玉に3、静岡と青森に1専用施設がある。沖縄の常時利用面積は229,245千㎡でこの面積比率が全国のそれの74%に相当する。米軍の全国展開は、57専用施設、28共同利用施設、119一時利用可能施設となっている。

 大日本帝国の解体とその非軍事化のために、連合国一員である米国が専らその占領支配統制を継続する保障として駐留した米軍は、国際法的にはサンフランシスコ講和条約締結とともに離日すべき立場にあったことは常識的に見て当たり前の話である。しかし実際には天皇メッセージや為政者の強い要望もあって、折から朝鮮有事が発生した時期でもあり、防共的思惑から講和に安保条約が付帯化し自衛隊も連動して日米間の外交関係は不透明な在り様を示すのである。それは憲法9条の最大の基本的理念でその根本精神である不戦、非戦の誓いが反故乃至改竄粗雑化される流れとして戦後日本自体と外交的対米関係が醸成される状況である。しかも戦後70年、9条は決して改変されることなく生き残ってきた。政治が「解釈」と称して9条周辺を弄繰り回す、という実態として我々の頭上に蠢く歴史であった。いずれにしろ日本国には外国の部隊が常時駐留する、という戦時的占領乃至戦後処理的臨時性が継続的に残置されたのだが、なし崩しに1960年更改された日米安全保障同盟体制が戦後70年間、極めて不健全な外交関係として様々な不具合、不祥事、不調、問題性惹起を呼んだのは当然の結果でもある。そうした問題の中でこれがおよそ集中的かつ危機的日常として顕現している自治体が沖縄県であることは言うを待たない。しかし概ね基地反対運動が功を奏したのは本土であり沖縄ではなかった。結果、本土の功が沖縄の掃き溜め化に即決し益々沖縄の危険な基地公害の坩堝化が増進し、かつ重ねて米軍からみの不祥事が相次ぎ、その時々には県民大抗議集会数万人規模が執り行われ、現今「普天間返還」に繋がったのはまさに当然の成り行きであった。ところが、結果理念性を付加したはずのSACO合意は骨抜きにされている。基地の段階的縮小、乃至撤去返還の実は目に見えた形では全く行われなかった。北部演習場の半減も結局同じ沖縄北部の一近辺に、より機能化強化されたヘリパッド施設を新設すること(それは同時に、やんばると呼ばれる亜熱帯樹林帯への環境影響が極めて懸念される工事となった)であったし、代替施設としての辺野古への基地建設は当初より米軍が画策していた巨大集中基地の欺瞞に満ちた強行新設行為そのものだった。つまり、日米の不健全な外交媒体である日米安全保障条約体制は、沖縄にほぼ特化して住民の意向を無視して突き進んでいるのである。数字に表れたように、本土には殆ど負担のないこの軍事同盟が何故かくも僻遠の南西島嶼に大きな物理的精神的荷重を加えて平気なのか。それは、その時々の為政者がこの屈辱的と言える軍事同盟を不可欠の外交手段と心得てやむことなくその強化堅持に邁進してきたからだが、更には、およそ明瞭に不平等なこうした安保負担比率に眼をつむり、のうのうとなんらの違和感負担感もなく未必の故意的に看過してすましてきた日本国国民の一億総エゴイズムが目についてならない。彼らが安保体制を容認する権利も資格もありはしない。世論調査(全国的に7割かた容認している。一方9割が沖縄では反対している)もまた大部分不公平な比率で集計されている。安保体制をよしとするなら、自身の出身県にこの米軍基地を誘致すべく自治体や国に働き掛けるべきだと考えるのが普通だ。基地負担だけは沖縄に押し付けてそれで自分の居所は国家によって安全に守られているというのが幻想に満ちたエゴイズムであり、子供にすらこのルール違反事態はわかる。と、大方の沖縄県民は思っているし、移住者たる筆者が此処に来て否応なく気づかされたことだ。

 沖縄にある現代的な問題は同時に日本国民の精神の在り処を問うのである。この先の論議は極めて哲学的だ。(つづく)

 

 


詩548 日米政府官僚が沖縄に対してやっていることの正体 琉球新報社説

2014年10月23日 06時55分46秒 | マスコミジャーナリズム

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-233524-storytopic-11.html

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-233525-storytopic-11.html

 こうした問題点は、知事承認後本土で取り上げられたことがない。いかに本土のマスコミマスメデアが腐りきっているかを我々は再確認せざるを得まい。それは一体に大震災後の原子力に関する問題点に対する応対にも表れている。教育と報道の有する翼賛性を熟知しなければ大戦の蹉跌を踏むのは時間の問題というべきであろう。