阿修羅というのは、
興福寺のあの尊像を
思い出していただきたいのですが
まさに八面六臂ともいうべきなほど
徹底的に戦うものの象徴でもあります。
(像は三面六臂です)
気の遠くなるほどの長い年月を
戦い続けるその姿は、
気高くもありますが、悲壮でもあります。
阿修羅は諸説あるのですが、
一説には正義の神と言われていて、
帝釈天との途方もなく長い戦いというのは
実は阿修羅の側こそ正義であるのですが
敵を許せない、正義にこだわることが
わが身を滅ぼしてしまい、
しかし戦いにも勝つことはできず、
その上、
敗れても敗れても何度も何度も復活するという
話だとも聞きます。
とすれば
僕にとってもこの活動にとっても
まさに「阿修羅のごとく」は
良くも悪くも
「言いえて妙」であるとも言えます。
僕にとって、なぜこの活動を続けるのかというと
僕が長井さんの友人であったことや
ご遺族の思いを考えてということは
もちろん背景にはありますが
それは主たる話では全くありません。
僕は自分の正義感やジャーナリストとしての
感覚の中で
長井健司がおこなった取材活動は、
なんら責められるレベルの行為はなく、
取材対象としての
あのヤンゴンでの出来事は
日本においても十分に報道に値する
レベルの大きな出来事であったことは
間違いないこと。
彼が命を落としたことは、
ミャンマー軍による恣意的な行為である可能性が
きわめて強く、
その現場を外国メディアに撮影させたくない
軍政の現場レベルの感覚が影響していること。
国際的に見ても、
取材者へのこうした虐殺行為は
許されるべきものではないこと。
しかもカメラとテープを奪ったまま、
返還しないこと。
こうした当たり前のことを捉えて
長井健司をどう評価するのかが
「日本」には決定的に欠落しています。
今回の不当判決はもちろんですし、
そもそも意味のないあやをつけてきた週刊文春の
感覚そのものも同じです。
さらに言うと
これは「日本」全体にもいえる話だと思います。
少なくとも日本政府そのもの、
特に官僚機構の中核は
長井さんのことを
表面上はともかく、根幹では
「迷惑なことをして、後の影響をどうするんだ」という
本音があります。
ある政府の事務方の幹部の一人は
「あんな取材して死なれて、
日本とミャンマーの外交にとって迷惑」と
露骨に不快感を示したと聞いています。
山口という元ミャンマー大使が
公に長井さん批判をしたのもその文脈でしょう。
そうした感覚が背骨なき週刊誌メディアには
追い風のごとくなりますし、
本質的な意味がない記事で
長井さんを中傷する状況は生じやすいのです。
今回の判決はそうした流れの中では
むしろ「日本」の空気を反映したものとも
言えます。
当たり前の正義よりも
「長いものには巻かれろ」です。
判決が政権が移行する前に出されたことも
旧来の「日本」の感覚である感じがします。
こうした感覚の方がより、
「日本」に利益をもたらすのであれば
僕がいかに正義にたって話をしようとも
意味がないのかもしれません。
ただ、ハッキリしていることは
この「日本」の感覚によって
対ミャンマーとの関係性で
日本は経済上も外交上も特段の優位どころか
意味あるプレゼンスは
現在ほとんど持ちえていないということです。
ただ経済援助を流し込んで
ノーリターンに近い状況だということです。
とすれば、本来なら
長井さんについて貶めることは
国益という観点からも
意味がないことです。
それでも、
「日本」にとって、本音は「迷惑」なのです。
長井さんは
パフォーマンスをしていた訳ではありません。
週刊文春よりも最前線で身体をはり、
そこで無残に殺されたのです。
最前線に立てない人間は
結局最前線に立つ人間を誹謗するしかないのかもしれません。
そして、裁判官とは
最も安全地帯から
評価する生業をおこなう人々です。
その感覚とほど遠いことこそ
容易に想像がつきます。
僕らの署名活動は組織背景なく、
13万人近い署名を集めました。
僕らにとっては大変な努力と犠牲の上に
この13万人を獲得してきました。
しかし、それでも
日本の人口の1パーセントにさえなりません。
大半の「日本」は
長井さんには関心もなく、ほぼ何の評価もせず、
さらにはうとましく思っている人も
少なからずいるという現実なのです。
これは圧倒的な現実です。
おそらく「日本」の中核である
政府ではもっとその率は高まります。
週刊誌以外のメディア関係者も例外ではありません。
少なくとも長井さんにまつわる事案での
新聞協会、フジテレビ報道局の対応。
さらにはアメリカの財団の手先として
長井さんを利用しようとする
共同通信記者の事案など。
長井さん本人を評価するよりも
長井さんを利用するだけの感覚。
本来味方であるはずのマスメディアが
利用することしかない状況。
そんな「日本」に比べて
ミャンマーの人々や
外国のジャーナリストが
普通に長井さんを評価するギャップ。
この「日本」との果てしなき戦いが僕の目の前には
広がっています。
本当にそれは阿修羅のごとくです。
しかし、阿修羅が正義を背負いながらも
ひたすら敗れ続ける宿命であり、
それでも何度も復活して戦い続ける存在だとしたら
まさに今の僕と重なる気がしています。
正義に拘るが故の敗北の連鎖という輪廻から
抜け出すループはありえるのか。
そして
きょうはじめて本格的な政権移行する「日本」。
考え込む日々が続きます。
興福寺のあの尊像を
思い出していただきたいのですが
まさに八面六臂ともいうべきなほど
徹底的に戦うものの象徴でもあります。
(像は三面六臂です)
気の遠くなるほどの長い年月を
戦い続けるその姿は、
気高くもありますが、悲壮でもあります。
阿修羅は諸説あるのですが、
一説には正義の神と言われていて、
帝釈天との途方もなく長い戦いというのは
実は阿修羅の側こそ正義であるのですが
敵を許せない、正義にこだわることが
わが身を滅ぼしてしまい、
しかし戦いにも勝つことはできず、
その上、
敗れても敗れても何度も何度も復活するという
話だとも聞きます。
とすれば
僕にとってもこの活動にとっても
まさに「阿修羅のごとく」は
良くも悪くも
「言いえて妙」であるとも言えます。
僕にとって、なぜこの活動を続けるのかというと
僕が長井さんの友人であったことや
ご遺族の思いを考えてということは
もちろん背景にはありますが
それは主たる話では全くありません。
僕は自分の正義感やジャーナリストとしての
感覚の中で
長井健司がおこなった取材活動は、
なんら責められるレベルの行為はなく、
取材対象としての
あのヤンゴンでの出来事は
日本においても十分に報道に値する
レベルの大きな出来事であったことは
間違いないこと。
彼が命を落としたことは、
ミャンマー軍による恣意的な行為である可能性が
きわめて強く、
その現場を外国メディアに撮影させたくない
軍政の現場レベルの感覚が影響していること。
国際的に見ても、
取材者へのこうした虐殺行為は
許されるべきものではないこと。
しかもカメラとテープを奪ったまま、
返還しないこと。
こうした当たり前のことを捉えて
長井健司をどう評価するのかが
「日本」には決定的に欠落しています。
今回の不当判決はもちろんですし、
そもそも意味のないあやをつけてきた週刊文春の
感覚そのものも同じです。
さらに言うと
これは「日本」全体にもいえる話だと思います。
少なくとも日本政府そのもの、
特に官僚機構の中核は
長井さんのことを
表面上はともかく、根幹では
「迷惑なことをして、後の影響をどうするんだ」という
本音があります。
ある政府の事務方の幹部の一人は
「あんな取材して死なれて、
日本とミャンマーの外交にとって迷惑」と
露骨に不快感を示したと聞いています。
山口という元ミャンマー大使が
公に長井さん批判をしたのもその文脈でしょう。
そうした感覚が背骨なき週刊誌メディアには
追い風のごとくなりますし、
本質的な意味がない記事で
長井さんを中傷する状況は生じやすいのです。
今回の判決はそうした流れの中では
むしろ「日本」の空気を反映したものとも
言えます。
当たり前の正義よりも
「長いものには巻かれろ」です。
判決が政権が移行する前に出されたことも
旧来の「日本」の感覚である感じがします。
こうした感覚の方がより、
「日本」に利益をもたらすのであれば
僕がいかに正義にたって話をしようとも
意味がないのかもしれません。
ただ、ハッキリしていることは
この「日本」の感覚によって
対ミャンマーとの関係性で
日本は経済上も外交上も特段の優位どころか
意味あるプレゼンスは
現在ほとんど持ちえていないということです。
ただ経済援助を流し込んで
ノーリターンに近い状況だということです。
とすれば、本来なら
長井さんについて貶めることは
国益という観点からも
意味がないことです。
それでも、
「日本」にとって、本音は「迷惑」なのです。
長井さんは
パフォーマンスをしていた訳ではありません。
週刊文春よりも最前線で身体をはり、
そこで無残に殺されたのです。
最前線に立てない人間は
結局最前線に立つ人間を誹謗するしかないのかもしれません。
そして、裁判官とは
最も安全地帯から
評価する生業をおこなう人々です。
その感覚とほど遠いことこそ
容易に想像がつきます。
僕らの署名活動は組織背景なく、
13万人近い署名を集めました。
僕らにとっては大変な努力と犠牲の上に
この13万人を獲得してきました。
しかし、それでも
日本の人口の1パーセントにさえなりません。
大半の「日本」は
長井さんには関心もなく、ほぼ何の評価もせず、
さらにはうとましく思っている人も
少なからずいるという現実なのです。
これは圧倒的な現実です。
おそらく「日本」の中核である
政府ではもっとその率は高まります。
週刊誌以外のメディア関係者も例外ではありません。
少なくとも長井さんにまつわる事案での
新聞協会、フジテレビ報道局の対応。
さらにはアメリカの財団の手先として
長井さんを利用しようとする
共同通信記者の事案など。
長井さん本人を評価するよりも
長井さんを利用するだけの感覚。
本来味方であるはずのマスメディアが
利用することしかない状況。
そんな「日本」に比べて
ミャンマーの人々や
外国のジャーナリストが
普通に長井さんを評価するギャップ。
この「日本」との果てしなき戦いが僕の目の前には
広がっています。
本当にそれは阿修羅のごとくです。
しかし、阿修羅が正義を背負いながらも
ひたすら敗れ続ける宿命であり、
それでも何度も復活して戦い続ける存在だとしたら
まさに今の僕と重なる気がしています。
正義に拘るが故の敗北の連鎖という輪廻から
抜け出すループはありえるのか。
そして
きょうはじめて本格的な政権移行する「日本」。
考え込む日々が続きます。