この会の活動は、
政治的な主張の有無はともかくとして
ある種の運動体になっていることは
間違いありません。
運動というのは、
時間的にひとまわりすると
いろんなことがおきます。
運動が
むしろ何か利害的な
私的目的があればまだともかく、
運動の目的が理念に純粋であるほど
逆に外からいろんなことがおきて
いろんなことがおきると、
運動体の身動きが取れなくなることが
多くなります。
そして実際に、
運動を担っていた人たちよりも、
担わなかった人からの方からの力が
運動に対しての
いろんなことがおきます。
向き合わなかった人ほど
適当なことを言うものです。
そして
運動が運動としての純粋な動きを
維持できなくなったとき、
運動は意味を喪失します。
直接向き合うことを避ける人に
運動の純粋性を伝えることは
不能に近いと僕は思います。
そういう人は、なかなか面倒です。
しかしそうしたことが
運動の実質的な強さを
大きくセーブする場合があります。
そうすると運動は
大変に難しい局面を迎えますが、
こうしたことを運動体がどう捉えて、
どう突破していくのかが
ある意味運動体の次のステージになると
僕は思います。
そのためには
運動体が大きく変化する必要性が
あるのだろうと僕はおもいます。
毎日考えあぐねています。