5年前の今日、あの震災は起こりました。
あの日、アタシ達は横浜の中華街で食事をして外に出たときに地震が起こりました。
路上にいた人たちは、戸惑い、動揺し、右往左往してしゃがみこんだりしました。
厨房の中からもたくさんの調理人が外に出てきていました。
中にはスープなどで体の前半分が濡れてしまっている人なども居ました。
店頭に置いてあったショーケースは倒れ、上階の窓ガラスが割れて落ちてきました。
高層マンションが重なるように揺れているのを見たとき、ホントに恐怖心を覚えました。
中華街から元町、石川町へと歩き電車の可能性がないことを知って、横浜まで歩き、そして新横浜まで歩き、夜の9時過ぎの新横浜でやっと動き始めた自宅方向へのバスに乗り最寄りの道路で下りたとき周辺が停電で真っ暗でした。
住民はほとんどが外で車のラジオを聞いていました。
なんとか家にたどり着いたのは夜の11時を回っていたと思います。
未だ復興が進まない被災地なのに、バブルとリーマンの破たんで少なくなった建築職人と建築資材の生産拠点などの影響で建築コストの上昇と職人不足で、ますますそのしわ寄せが来ることを考えると
オリンピック誘致はうれしいし楽しみでもあるけれど、これでいいのか?と思わざるを得ません。
一日も早い復興を願うと共に、岩手、宮城、福島、茨城産の食材を食べようよ、みんな。。。。。
あの日、アタシ達は横浜の中華街で食事をして外に出たときに地震が起こりました。
路上にいた人たちは、戸惑い、動揺し、右往左往してしゃがみこんだりしました。
厨房の中からもたくさんの調理人が外に出てきていました。
中にはスープなどで体の前半分が濡れてしまっている人なども居ました。
店頭に置いてあったショーケースは倒れ、上階の窓ガラスが割れて落ちてきました。
高層マンションが重なるように揺れているのを見たとき、ホントに恐怖心を覚えました。
中華街から元町、石川町へと歩き電車の可能性がないことを知って、横浜まで歩き、そして新横浜まで歩き、夜の9時過ぎの新横浜でやっと動き始めた自宅方向へのバスに乗り最寄りの道路で下りたとき周辺が停電で真っ暗でした。
住民はほとんどが外で車のラジオを聞いていました。
なんとか家にたどり着いたのは夜の11時を回っていたと思います。
未だ復興が進まない被災地なのに、バブルとリーマンの破たんで少なくなった建築職人と建築資材の生産拠点などの影響で建築コストの上昇と職人不足で、ますますそのしわ寄せが来ることを考えると
オリンピック誘致はうれしいし楽しみでもあるけれど、これでいいのか?と思わざるを得ません。
一日も早い復興を願うと共に、岩手、宮城、福島、茨城産の食材を食べようよ、みんな。。。。。
私もあの時は生まれて初めて訓練以外で避難をしたことを記憶しています。
「もう5年」なのか「まだ5年」なのかは人それぞれなんでしょうが、オリンピックに巨額の費用が投じられると言う話を聞くたび「なんだかな~」と思ってしまいますよ。
やっとあの日に起こった事を 話せるようになった方々からのお話を見聞きする度に 心の苦しみからも逃れられない人が まだまだいることを知りました。
建物などの 復興も必要ですが、心の復興(サポート)も 必要かと思います。
世の中、腹の立つことって結構多いですなぁ。。。
アタシもここのところ落ち込んでおりますですよ。。。
相方がだんだん長期に家を空けるのが難しそうなので、今後の旅の考え方は変わらざるを得ないかぁ・・・・・