malのあっちこっちブログ

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出来事・・・

2013-06-05 23:53:06 | 日々のこと
昨夜のこと・・・
10時過ぎに最後の路線に乗り換えて1駅目で電車が駅の中途半端な位置で止まりました。
そして中々ドアが開かない。
ほどなく、「ホームで人が倒れているので安全を確認中」とアナウンスが流れた。
次に「電車と接触したもようですので、今しばらくお待ちください」と言う。
そして、「ホームに接している車両のドアを非常用ドアコックで開けるようにしました」とのこと。
しばらく車内で待っていたのだが外に出て様子を見に行ってみると、顔面を朱に染めた中高年が呆然と座っていた。
どうやら接触して転倒した時にホームで顔面を打ったらしい、酔っていたのだろう。
人身事故では現場検証やら救急処置やらで1時間はかかるとみなくてはならないと思い、歩いて帰ろうと駅を出た。

                                                    

          かなりの人が思い思いに行動を開始していた。
          ほどなく隣の駅に着いたのだが、踏切に遮断機が下りていた。
          待っていた人に聞いてみると、結構長い時間下りていると言う。
          この駅は踏切と隣接していて、電車が止まっている間は遮断機が下りているのだろう。
          ただ先ほどの事故で下り電車は止まってしまっているし、登りもその影響でダイヤが乱れてしまっていた。
          やってはいけない事なのだが、不慣れな土地で迂回路も分からないので止まっている電車を横目に踏切を横断した。
          駅から離れた踏切では、電車が通らない限り遮断機は下りないだろうけど、こういう駅では事故の時何らかの安全対策や
          指導は鉄道会社はやらないのだろうか?
          ホームに止まっていた電車は煌々とついている明かりの中に乗客はおろか運転士も乗っていなかった。

          

                    先週の木曜日、仕事帰りにジムに向かう途中で止まった駅の一駅先の駅で人身事故があった。
                    ジムまで二駅、この近くの歯医者に通っていたこともあって、ルートも土地勘もあったので
                    すぐに降りてバスでジムに向かったのだが、通勤時と重なって1時間ほどかかってしまった。
                    ジムについてからも止まったままで動き始めたのは2時間近く経ってからだった。
                    この時は通過駅で急行に飛び込んだらしい。

                                        

                              鉄道事故で蒙る迷惑は数千、数万人に及ぶ。
                              覚悟の人にこんなことを言っても馬の耳に念仏かもしれないが、家族も含めて迷惑を及ぼすことを考えてほしい。
                              件の呆然としていた親父も、チョイト一杯のつもりが大変なことになったことを思い知るべきだ。
                              後日、「いやあ命拾いをしたよ」なんて冗談でも言わない方がいい。

                              


40年ほど前に急行電車に乗って新潟に向かっていた時、何にもないところで列車が止まった。
同行していたN氏が「人を跳ねたな。女の人だな。」と言う。
やがて車内アナウンスがあって、その通りの事実の報告があった。
そんなこともあって、予定をだいぶ遅れて暗くなってから、雪が積もり雪がちらつく栃尾と言う町に着いた。
予約もなく行ったので宿にはそれこそ女中部屋しか空いてなく、食事も残り物しかなかったのだが、飯がめっちゃ旨かったのだけを鮮明に覚えている。

実は、この旅、N氏の助手と言う立場で出かけた。
このN氏の所で高校の同級生が地元の工学部を出て働いていたのだ。
N氏は会社勤めのころ、セロファンにシリコンを混ぜて静電気が起こらなくする方法で特許を持っていた。
この特許を会社に売り、その資本を元手に今で言う起業した。
なにしろ、技術屋と言うか、発明家と言うか、そんな感じの人だった。
このN氏が布を織る糸玉に糊をつけ乾燥させ巻き取って又糸玉にするまでを一貫工程てできる機械を作り、その機械を採用してくれた企業に半年に一回メンテで行くのに
同級生から頼まれて、ナンチャッテ助手に成りすまして同行したのだ。
そのころの反物の糸は、糸玉から一旦枷に巻き取り、枷を乾かしてから再度巻き取って糸玉にしてから織った。
それを、真空タンクを作ってその中に糸玉を入れてから真空にし、糊が入っている方のバルブを開けると真空タンクに霧状になった糊が吹き込み、瞬時に糸玉の芯まで糊漬けになる。
その糸玉を台に置き、糸先をヒーターを組み込んだ乾燥機に通す。
この乾燥機の中には直径30mm位の回転する柱が10数本あり、この回転によって糸が下から上に移動して移動しながら乾燥し、上から出た糸を巻き取り機で巻き取って糸玉にする。
このシステムと乾燥機をN氏が考えて作ったのだ。
最大の問題は回転する乾燥機にきわめて熱伝導が良く摩耗しない素材をどう供給するか、この一点が課題だった。
素材はカーボンで決まったが、どうすれば条件を満たす性質のものが作れるか。
思いついたのはパンタグラフ、高速で走る新幹線のパンタグラフや架線は、そうたびたび交換はしていない。
国鉄にも問い合わせたようだが、その製造方法は教えてくれなかったと言っていた。
結局作られたカーボンの素材では、半年に一回は接点を交換しないとヒーターが作動しなくなって乾燥できない。
そこで、ナンチャッテ助手の登場となったのであります。

このN氏、当時のローレルに乗っていたのですが、ガソリンはハイオク○%対レギュラー○%、メーカーは日石のみ。
技術屋のこだわりから出した結論で、ローレルのエンジンにはこのメーカーのこの配合比がベストと信じている人でした。
美人の奥さんが居て、子供はいなかったのですが、その後、同級生の話しでは奥さんに逃げられた、意味の通り、逃げられたそうです。
どっちが言い悪いは別にして、接点が見いだせなかったんでしょうね。
四六時中、新しいことを考え、それ以外では車の話しだけが話題になるような、他の事には一切興味がないと言うN氏でした。