博物館を出て、なんにもない田んぼの中を目指して歩く。
途中で線路を横断(タイミング良く電車が通過する。ディーゼルだった)し、ころ合いを見計らって田んぼの畦道の様な所に入ってゆく。
この時期、当然ながら田んぼに水はなく乾燥しているので、道の様な、道じゃないようなところを歩いて目指す遺跡に向かう。
何となく整地されているようなところを歩いてゆくと、目前に門石か何かの部分石と、恐らく塀の基礎跡と思われる石積みが現れた。
この規模だけを見ても、その大きさが想像できる。
石積みの向こうに一段高くなっている所が見える。
目指す皇龍寺の内陣だろう・・・
発掘跡を見渡してビックリした。
その規模の大きいこと
その規模、80,928㎡とか・・・
皇龍寺は新羅時代の第24代真興王14年(553年)に着工、4代93年間かけて完成した大伽藍らしい。
残念ながら高麗時代の1238年、蒙古との戦いで焼失。
1976年に発掘されて、現在に至っている。
この皇龍寺は飛鳥寺と似た配置で、一塔式伽藍配置でその一塔は木造九層、高さ80mもあった新羅三宝と称えられたほどのものだったらしい。
その基礎石の大きさは
ほぞも切ってあって、当時の日本の仏閣の基礎石と比べても、その技術水準の高さが分かる。
現存する日本の塔では興福寺の五重塔が最大と記憶しているが、西大寺に残る五重塔の基礎石は、
興福寺のそれよりも大きかったらしい。
この西大寺の基壇下にある境界石は八角形を成していて、日本では珍しい形を造っている。
しかし、この九重の塔はそれをはるかに凌ぐ。
出雲大社から発掘された直径2mもある柱跡から想像された祭殿跡の復元想像図も、信じられないような大きさの木造建築物だったと記憶しているけど、1500年も2000年も前にあったこのような木造技術を想像することは、とても楽しいことと同時に難しい。。。
跡地には航空写真も展示されていた。
写真手前の門が南大門、そして中門、正面に九重の塔、左右に鐘楼、塔の後ろに中金堂、左右に西金堂と東金堂、中金堂の後ろに講堂。
そして中門と講堂を周る回廊と南大門から始まる外塀。
そして、この地は元々沼地だったらしく、その場所を埋め立てて盛土して造成したためか、伽藍内には大きな池がいくつもあったという。
今の技術では木造九層の塔は作れないかもしれないが、この世界に誇る大伽藍を見たかった。。。
思いを残して芬皇寺へ向かう
途中で線路を横断(タイミング良く電車が通過する。ディーゼルだった)し、ころ合いを見計らって田んぼの畦道の様な所に入ってゆく。
この時期、当然ながら田んぼに水はなく乾燥しているので、道の様な、道じゃないようなところを歩いて目指す遺跡に向かう。
何となく整地されているようなところを歩いてゆくと、目前に門石か何かの部分石と、恐らく塀の基礎跡と思われる石積みが現れた。
この規模だけを見ても、その大きさが想像できる。
石積みの向こうに一段高くなっている所が見える。
目指す皇龍寺の内陣だろう・・・
発掘跡を見渡してビックリした。
その規模の大きいこと
その規模、80,928㎡とか・・・
皇龍寺は新羅時代の第24代真興王14年(553年)に着工、4代93年間かけて完成した大伽藍らしい。
残念ながら高麗時代の1238年、蒙古との戦いで焼失。
1976年に発掘されて、現在に至っている。
この皇龍寺は飛鳥寺と似た配置で、一塔式伽藍配置でその一塔は木造九層、高さ80mもあった新羅三宝と称えられたほどのものだったらしい。
その基礎石の大きさは
ほぞも切ってあって、当時の日本の仏閣の基礎石と比べても、その技術水準の高さが分かる。
現存する日本の塔では興福寺の五重塔が最大と記憶しているが、西大寺に残る五重塔の基礎石は、
興福寺のそれよりも大きかったらしい。
この西大寺の基壇下にある境界石は八角形を成していて、日本では珍しい形を造っている。
しかし、この九重の塔はそれをはるかに凌ぐ。
出雲大社から発掘された直径2mもある柱跡から想像された祭殿跡の復元想像図も、信じられないような大きさの木造建築物だったと記憶しているけど、1500年も2000年も前にあったこのような木造技術を想像することは、とても楽しいことと同時に難しい。。。
跡地には航空写真も展示されていた。
写真手前の門が南大門、そして中門、正面に九重の塔、左右に鐘楼、塔の後ろに中金堂、左右に西金堂と東金堂、中金堂の後ろに講堂。
そして中門と講堂を周る回廊と南大門から始まる外塀。
そして、この地は元々沼地だったらしく、その場所を埋め立てて盛土して造成したためか、伽藍内には大きな池がいくつもあったという。
今の技術では木造九層の塔は作れないかもしれないが、この世界に誇る大伽藍を見たかった。。。
思いを残して芬皇寺へ向かう