読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

司馬遼太郎の『アメリカ素描』を読んで

2020年05月01日 | 読書

◇ 『アメリカ素描』   著者:司馬遼太郎  1964.4 読売新聞社 刊

  

 外出遠慮のさなか、読む本がなくなっての再読である。『アメリカ素描』は司馬
遼太郎にしては珍しい紀行書であるが、単なる旅行記ではない。
彼の関心事は主としてアジアにあり、欧米の国はヨーロッパに2度行っただけ。
 わずか40日間、広大なアメリカの西海岸と東海岸の一部を辿っただけで、旅行記
とするのはあまりに駆け足で、これを素描としたのは彼なりの遠慮があったからだ
ろう。
(第一部はロサンゼルス・サンフランシスコなど西海岸諸都市、第二部はニューヨ
ーク・フィラデルフィア・ボストン・ポーツマスなど東海岸諸都市)
 内容的には単なるアメリカの風物、国民の印象観察ではない。まるで「街道をゆ
く」のアメリカ版の如く、歴史的観照である。見るもの接するものからその国・地
の歴史・文化に思いを馳せ納得する、日米彼我の比較文化論的な紀行作品である。

 紀行の集約といえるものは、アメリカを人工国家であると喝破したところか。ア
メリカは「nation」ではなく「states」つまり他民族を法律で結び合わせた人工的な
国家であるというのが彼の基本的な文明史的理解である。

 <排日問題の原形>
    太平洋を隔てての隣国でありながら、日米の関係はほとんどの期間日本人排斥の
歴史だというのである。20世紀初頭の移民、日露戦争直後、太平洋戦争中、排日の
拠点は殆ど西海岸にあった。底流には日本人によって米国の雇用やドルが奪われて
いるから排斥しなければならないというゼニの論理である。現代のトランプ政権の
論理と変わらない。これはわかり易く国民に受けるのである。

<少数民族「ゲイ」>
 ゲイの多いことで知られるサンフランシスコを訪ねた。ゲイに法的公認を求める
活動をする人たちと語りながら、自身の「ゲイ」に関する見解と立場を述べている
(私は一般論的にホモにも性革命にも興味はない。日本のような重文化の国でそれ
が行われようとするなら、商業主義にすぎないと思っている)
 近年の欧米はもとより日本におけるLGBTへの理解と法的取り扱いの進展を知った
ら目を剥くだろう。
<貿易センタービルからの夕陽>
 著者は9.11に消えた世界貿易センタービルの107階から夕陽を見た。高層ビルが
林立するニューヨークでは夕陽らしい夕陽を見るにはここしかなかった。この日、
ガスが濃くて、夕陽は水っぽいオレンジで上出来なものではなかったらしい。そ
のためか話はビジネスと経済の仕組みと国々の盛衰に移っていった。話はいつし
か福沢諭吉からハーバード・ビジネススクールそしてウォール街に移っていた。
<ハーレム>
マンハッタンに世界に名だたる黒人の街ハーレムを訪ねる。移民の国アメリカの
多くはそれぞれ自分や先祖の祖国を持っているが黒人にはアフリカを祖国という
認識はない。彼らにとっては例えばサウスカロライナが故郷なのだという。
 ここで著者はつぶやく。「繰り返すようだが、黒人こそ生粋のアメリカ人では
ないか」
<巡礼始祖の地>
1629年にアメリカ大陸に上陸した清教徒たちはピルグリム・ファーザーズと呼ば
れた。ワスプの原形である。ワスプその本拠地ボストン。過度に宗教的であり、
「自他の違いを微妙に区別することに過敏だった」とする。つまり宗教的に不寛
容だったので魔女狩りで、平気に異教徒の首を吊るしたらしい。
<ポーツマス>
ボストンの北にあるポーツマスにおいて「ポーツマス条約」を考える。著者は
『坂の上の雲』の余熱が残っていて、日露戦争と小村寿太郎、講和の労をとった
セオドア・ローズベルトに触れる。時の大統領ローズベルトは新渡戸稲造の「武
士道」を読んでいた日本びいきだった。小村寿太郎がニューハンプシャー州に寄
付した1万ドルのチャリティ基金は今は4万ドルになっていた。
<フィラデルフィア> 
 軍港フィラデルフィアにおいて日露戦争と秋山真之についても想いを馳せる。
当然小村寿太郎と桝本卯平が出てくる。のちに日本と戦ったバルチック艦隊の軍
艦はここで建造されていた。桝本がここで軍艦建造技術を学び、駐在武官であっ
た秋山が彼を訪ねたエピソードを記す。
 ロサンゼルス郊外で食べた寿司がうまかったという印象述べながら、ついでに
鮒ずしの特徴、箱寿司へと、寿司の歴史に3ページを割く。そんな調子は「坂の
上の雲」などで小説の中で突然作者が顔を出し、持論をとうとうと述べる辺りと
似ている。
ここでは「少し雑談したい」と断ることもある。
 
 アメリカはかつて人種のるつぼといわれたが、ここまで人種的に雑多な人々が
集まってしまうと、メルティングによって新しい文化を作り上げていくというこ
とは不可能で、結局サラダボウルにとどまって文化的な変化は生まれていない。 
 ただ普遍性を持たない日本文化の下に生活している我々にとって、この地球上
には普遍的・合理的な文明のみで成り立つアメリカという気楽な大空間があると
感じるだけで安心感が得られるのではないかという捉え方は目からうろこである。

最後にアメリカに辛口をひとつ。「アメリカには抜きがたい悪癖がある。他の何
ひとつアメリカ的条件を持たない国に「アメリカのようになれ」と本気で勧めて
まわることである」。
                          (以上この項終わり)

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