読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

荒山 徹の『風と雅の帝』

2023年12月13日 | 読書

◇ 『風と雅の帝

   著者:荒山 徹    2023.9  PHP研究所 刊

  
 
    歴代天皇の系列に数えられていない天皇。王政復古、天皇親政を頑なに追い続けた
後醍醐天皇に対抗し「天皇とは何か」を追い求めた「光巌帝」の激動の人生を描いた
歴史小説。

 鎌倉時代から室町時代にかけて、万世一系の天皇家は持明院統、大覚寺統という二
系列の王朝が互いに正当性を主張し合う皇統分裂時代があった。学校の歴史教科書で
もあまり詳細には語られていない。この渦中にあった光厳天皇(量仁帝)に焦点を合
わせ、この時代の幕府の権力構造の波に翻弄された天皇の苦悩を描いたのが本書であ
る。
 作者は数多の史料、文献、著作を跋渉し魅力的な天皇像をヴィヴィッドに描き出し
た。

 皇統分裂は後嵯峨上皇が後深草帝と亀山帝とどちらを後継者にするかを定めないま
ま薨去したことに発する。一時は双方10年を目安に交互に天皇を出し合うという妥
協もあったが、鎌倉幕府が皇位継承に介入し幕府の主導権争いの中でこの二極構造が
臨機応変に利用された。

 鎌倉幕府北條氏を襲った足利尊氏は新田義貞を下し大覚寺統(南)尊治帝(後の後
醐醍上皇)を押した。のちに義貞が京都を支配した時尊氏は量仁帝に「義貞追討の院
宣を出して欲しい。そしたら天皇位に復位させる」と言った。時の幕府の権力争いの
度に皇位が揺らいだのである。

 大覚寺統尊治帝が謀反をおこした。謀反は不成功に終わった。しかし鎌倉幕府は天
皇股肱の臣日野資明を佐渡に流罪としたのみ、天皇お咎めなしとした。

 しかし後醍醐はしたたかである。両統合意を反故にした尊治帝は7年後またも謀反
を起こす。前回無罪放免となった日野俊基らが六波羅探題に捕縛され、尊治帝はいち
早く内裏から逃れ比叡山に潜み、後に笠置山に身を隠し「天皇挙兵」を布告した。
1か月もせずに謀反は潰えた。日野俊基、北畠具行らは斬罪、首謀者の後醍醐は隠岐
に流罪となった。
 幕府は後醍醐の退位と東宮(量仁)の践祚を奏請した。量仁は父帝の院宣によって
践祚し第96代目の天皇になった。

 ところが後醍醐の息子護良親王が吉野で倒幕活動を始めた。しかも後醍醐が隠岐を
脱出して兵を挙げた。京都を守る探題軍は尊氏の裏切りにあい敗走し西に走る。後醍
醐は京都に戻った。これにより量仁帝は「偽帝」であることとなった。
 その後新田義貞、楠木正成の登場などにより鎌倉幕府は滅んだ。これにより武家集
団における離合集散が目まぐるしく、両朝廷は幾度となく綸旨発出を繰り返すことに
なった。

  朝廷の後ろ盾となった尊氏系は権謀術数に長け、平然と持明院統を何度も裏切った。
また後醍醐も裏切られた。
 新田義貞と組む後醍醐は尊氏を討てと院宣を下したが、楠木正成、新田義貞や北畠
顕家は九州に逃れた足利尊氏を攻めた。後醍醐系の軍との攻防中、尊氏から量仁帝に
「義貞追討の院宣が欲しい」と言ってきた。裏切りの尊氏だが、熟慮の末これを呑む
しかなかった。 
  天皇親政に執念を燃やす後醍醐天皇は 量仁の姉を中宮にと勅命を発し、生まれた男
子を次の天皇に、また娘懂子を量仁帝の妃にせよと勅命し両皇統の統合を狙った。

 後醍醐は比叡山に籠城中、二帝の並列となったが間もなく後醍醐の義貞軍が敗北、
後醍醐帝は比叡山を降りた。尊氏は後醍醐に恩義があるから罪は問わないという。
後醍醐は帝位を息子の義良親王に譲り上皇になる。
 またも後醍醐は花山院から姿を消し吉野の賀名生に居を移した。後醍醐帝は延元4年
(1339)に薨去。後継に義良親王を指名した(後村上帝)。

 足利義満の代にようやく世の中が落ち着いてきて天中9年(1392)南北両朝の和睦が
成立した。足利義満が太政大臣に任じられ足利幕府が確立した。

 量仁は、院政も敷かず摂関もおかず天皇親政を始めた後醍醐天皇の強引さにに怯み、
臆し、萎縮してきたものの、果敢にこれを否定し徳を積み政を正す学問天皇が真の天
皇だとし信じ生涯を貫いた。
 禅宗の僧として出家した量仁は丹波の山中常照寺に隠棲。貞治3年(1364)崩御した。
                           
                             (以上この項終わり)
 


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 水彩で魚の干物を描く | トップ | みかんを描く »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

読書」カテゴリの最新記事