友人から「冨永冬樹伝」、「中山穰治傳」(柴興志著 出版社は記載なし)を送って頂きました。
幕末から明治以後の、富永冬樹(敬称略)をめぐる人物と時代が書かれています。中山讓治(敬称略)は、冬樹の妹の夫です。 その、家系には、明治以後の司法・商業・政治・外交・教育・などを切り開人物が紹介されています。
この、冬樹・中山二人に共通するのは、社会的な実績や地位を得た、立身出世というものとはちがう、「正論と反骨」それを支える、学問・文化・伝統・芸術、教養人としての姿です。著者は、冨永家系の特徴として、自力で人生を開拓する遺伝子、基礎教育の手厚さを述べていますが、冨永さんの背景として納得できるものでした。
私は、明治維新は、民衆の立場の革命ではなく、幕府から絶対天皇制への下級武士が中心となった権力の移行だと考えていますが、その過程の中で、様々な人材が一色ではなく模索していった時代としてもとらえられるのではないかと考えています。
富永冬樹のボストン工科大学留学など何カ国語もマスターした語学力、裁判官の側面、横浜洋銀取引所の創立株主・日本興業銀行の設立出願者の側面、治安維持法の死刑への改悪に反対した石黒 忠悳との長き友情、北海道共和国をめざした榎本武揚への支援、落語家円朝との接点など風流人でもあった。
児島惟謙(大陪審院長)の名付け親として、「惟寛」を付けた、ジョークも披露しています。「君が子を叱るときに『これイケン』よりも『これイカン』の方が良かろうヨナア」。と。
さらに、興味を引いたのは、絶対的権力に抗する人々も、この流れから育っているということでした。
冬樹の子供(敏磨)の妻の妹の夫は、平野義太郎で、日本共産党の戦前の理論家・野呂栄太郎と共に、日本社会を分析し変革の展望を示した人物で、彼らの書いた「日本資本主義発達史講座」は、不破哲三氏が改めてその意味を表している書です。
その家系には、冨永惣一世界美術専門家会議議長で、日本に西洋美術を紹介した人物もいます。
有力農民であった冬樹の父が御家人の株を買って侍になったのですが、明治維新でその権利を放棄しいわゆる「士族」から「平民」となったとあります。
徳川時代の根本矛盾のひとつは、数百万という生産活動を行わない「遊民」化した武士団の経済的困窮と商業資本の台頭があり、冬樹の父は商業資本家ではありませんが、経済力によって、武士の資格を得る条件があったということでしょう。
さらに、資本主義的生産の発展のためには、一方に資本を握る少数者と生産手段を持たない労働者が必要とされ、封建的身分の廃止と関連して、公償制度として、多くは、わずかな保障で家禄を放棄させられることになりました。
この、経過を体現したのが、富永冬樹だったということでしょう。
明治維新とは、何だったのかの私の問題意識に触れる内容でもありました。
また、著者の柴興志の「富永冬樹に関する報告」では注目する文章がありました。
「富永冬樹研究の核心部分は、この高貴高潔の精神である。.........一九八〇年代の正森代議士である。国会の質問で興奮しない。凛として落ち着いて叮嚀なな言葉で質問する。悲憤慷慨や憤怒の形相はこの人には無縁である。論戦の始めは正森さんだけが、背筋が伸びている。話に筋が通っている。相手方の論理を叮嚀な言葉で確認した上で、「貴方御自身の論理で考えて、最近のこれこれの事実は如何なのですか」と論をすすめる。先ずは同僚代議士が「そうだっ」「成る程」と思う。相手側の政党幹部も背筋が伸び始める。ついには矢面のその大臣もそう言われればグウの音も出ず「そうだなあ、言われたとおりだよな」と背筋が二ビル。国会で絶叫したら、こうはいかない。正森代議士の「品」が物を言っている。」との記述がありました。
おそらく、日本共産党の故正森成二のことだと思われます。この著者も気骨のある方のように思われます。正森さんは、著書『質問する人 逃げる人』の中で、自民党の重鎮であった後藤田正晴に気に入られたようで、教えてもらったことなども紹介しています。