JCP市原時夫です

千葉県房総の睦沢町から、政治・経済・歴史・オペラ・うたごえを考えるgabuku@m12.alpha-net.ne.jp

太宰治をめぐる、宮本顕治氏・加藤周一氏の対談

2012年12月28日 | Weblog

 宮本顕治著作集第3巻で分かった対談の背景
 現在毎月発行されている。宮本顕治著作集の第3巻は終戦の年1945年~49年の時期の著作です。
一度だけ、宮本顕治氏と加藤周一氏が対談した記録(初出『展望』1949年4月号)が、「宮本顕治対談集」の一つです。(1972年新日本出版)
 その後何度か読み返し、太宰治をめぐって、本質的なところが一致しているようですが、率直な見解がぶつけ合われていることがわかりました。
 両者まったく譲らずという印象です。

人を見下している太宰治の「人間失格」
 「人間失格」を読んで、太宰治は読みたくないと思いました。この中で主人公・自分のことでしょうけれど。自分を人間失格として描いていつようですが、私は、本人が自覚しているしていないにかかわらず、「こんなに、自分の弱点・弱さを堂々と画いているんだ、君たちはできないだろう」という思い上がった太宰のすがたを感じました。
 彼は決して、悩む若者を励ましているのではなく、社会と自分以外の人間を蔑視していると感じました。

戦後の変化の中で民主主義日本を、めざす先頭に立つ者の
責任と意志を示した宮本顕治氏

 著作集では、『人間失格』その他   -太宰治についての感想-1949年9月25日
芸術運動と党員芸術家の課題 党員芸術家会議のおける発言(要旨) 1949年7月3日
統一戦線とインテリゲンチア 1949年4月
文化政策について  日本共産党第5回大会報告 1949年2月26日
 などが、太宰治の評価をめぐる、日本共産党と時代背景がわかる文章です。
加藤周一が太宰治を持ち出したのもそうした時代の反映であったことがわかります。
 
否定的なものでも多くの読者をつかんでいる現実 加藤周一氏
道徳的犠牲者でもなんでもなく、退廃の別の型にすぎない 宮本顕治氏

 加藤周一氏は、対談から31年後、1980年5月に発行された、日本文学史序説下の中で、太宰治について書いています。
「 その同じ年に二三歳の学生太宰治(一九〇九~四八)が、共産党の非合法活動を去った「良心の苛責」は、ながく残って、おそらく後の小説「人間失格」(一九四八)を書く動機にまで係っていた。太宰の「人間失格」とは、実は「共産主義者失格」ということである。(日本文学史序説下 ちくま学芸文庫 446ページ)

 敗戦そのものは、直接間接に多くの文学作品に反映していたが、太宰治(一九〇九~四八)の『斜陽』(一九四七)や『人間失格』(一九四八)にもっとも鋭く象徴されていたのかもしれない。太宰は津軽の大地主の息子で、早くから小説を書き、三〇年代には「日本浪曼派」に参加していた。学生時代に共産党の非合法活動に従い、およそ二年の後、警察にみずから出頭して「転向」した(一九三二)。数年の間隔をおいて自殺を計ること四度に及んだが、四度とも失敗した。太宰の「私小説」は、津軽の旧家の自負と失敗の居直りの証言であり、挫折した人生の美化と自己陶酔の記念碑である。しかし病身で、意志薄弱で、虚栄心が強く、感受性の鋭敏な男の人格の崩壊過程を、これほど見事に描きだした小説は他にない。もちろんそれは作者の私生活とのみ係り、大日本帝国の運命と係るものではなかった。しかし敗戦直後、帝国の陽が沈もうとしていたときに、太宰は『斜陽』を書き、独立の国家として日本が失格していたときに、『人間失格』を書いたのである。
(日本文学史序説下 ちくま学芸文庫 514ページ)」
 
 宮本顕治氏は、「従来党員のあいだにおいても、まだ文化問題に関し、全体として過小評価の傾向があることです」文化政策について 63ページ
  また、すでに、民主主義の流れに逆行する支配勢力の強力な力が動き出してきた中で、当時の知識人インテリゲンチアの中から、民主主義擁護の動きが広がり始めていたようです。
 そうした中で、「民主的文化の側にたつというもののあいだにさえ・・・・太宰の死を厳格に批判的に取り扱うことは、太宰の広範な読者を反発さすから、さけるべきだという見解がみうけられたことである」『人間失格』その他 429ページ
 「これは、典型的な自己破産の文学であり、生涯である。大地主の子弟としての環境で育った田舎風の貴族主義と皮相浅薄な左翼くずれ的な時代潮流、実生活無能力と放蕩的無頼さと病弱ーこの地盤にさいた文学的才能が彼の文学の総和である」同432ページ
 「日本人民の自由と独立にたいするさまざまな脅威がみられ、それにたいして、労働する階級を先頭として前人民の統一と闘争がたかまらねばならぬとき、一方では、太宰の自殺とその文学の氾濫という対照は見逃すことのできない一様相である。」同435ページ
  

 私は、宮本顕治氏の当時の主張と加藤周一氏の主張は基本的には同じだと感じています。
 
 その上で、加藤周一氏の「『共産主義者』ということである。」という見方の中に、当時の社会状況そのものを肯定する加藤氏と、民主日本を国民と共に作り上げるという責任を感じて実践の先頭にたっている宮本顕治氏との違いが鮮明になっているように思います。
 また、「『良心の苛責』は、ながく残って、おそらく後の小説『人間失格』(一九四八)を書く動機にまで係っていた。」と加藤周一氏は書いています。
 加藤周一氏は非常に冷静で客観性を重ん、科学的な説得力をもった型と思いますが、一方では、人間にたいするやさしさの溢れた方であることが、わかります。
 良心の呵責があったかどうか、それが動機となったかという、ものを私は読んでませんので、わかりませんが、時代と作品という点から言えば、「人間失格」をやはり私は評価できません。評価するとすれば反面教師ということでしょうか。
 自殺して良いのか、もっと、素直に生きろよ!と太宰治には言いたいです。

 宮本顕治著作集には、当時の情熱と思いがつまっており、今生きる私に語りかけてきます。
 

その後 文藝春秋1957年1月号で、臼井吉見氏との対談で、臼井氏が盛んに挑発するのですが、宮本顕治氏は丁寧に答えています。
 その中で宮本氏は「私はその点では、加藤周一君の説が適切だと思った。だから私は加藤氏のあれを引用したが。」と述べています。
 一方、加藤周一氏は、宮本顕治氏の死去に際して、宮本氏を評価する文を「赤旗」に寄稿しました。
 若い頃の一度だけのそれも、大激論の相手に対してのその後の評価のあり方に、私は感動しました。


 

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1 コメント

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加藤の太宰治に関する記述について (浜本 司)
2017-07-03 00:59:23
実際的能力に乏しければ乏しいほど才能に恵まれているということになろう。日本で戦後に流行したある小説家が、自分は人間として失格だということを公然と宣言したときに、彼は自分が芸術家として合格だといいたかったのだ。読者は、みごとにひっかかった。実は、芸術家合格を人間失格という面でしか強調できないという点に、その男の芸術家としての貧しさを見るべきだったろう。 カトーⅠ P.402
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