ときどき、ふと思う。
私は、ケンカが、嫌いだ。
(ちなみに、単純に、「大きくなったケンカ」を戦争という)
だが、
お互いにわだかまりがあったり、憎しみ合っているのに、表面上は取り繕っているよりは、
自分の言い分を述べて、ケンカするほうが、よっぽど正直者だと思う。
(ただし、周りの方々を巻き込まぬように)
相手に、自分の気持ちや意見を伝えたいからこそのケンカであれば。
それなら、最終的に仲直りできるだろう。 1)
一方、「自分はケンカがしたくない、平和主義者です」と言っていて、確かにケンカはしてはいないが、
相手を貶(おとし)めたり、罵(ののし)ったりする発言をする方もいる。
そして、そのような発言をされた相手がケンカをふっかけると「なんてヤツだ」と、相手をさらに見下す人もいる。
多分、本人は気付いていなかったのかもしれないが、・・・その言動不一致、もしくは火種となりそうな言動には、違和感を感じざるをえない。
(ディベートや何か問題について話し合わなければならないときに、その議題自体に焦点を当てずに、その相手側の論者を貶めるような下手な発言などをするのは、特にデス。)
また、自分だけ平和であればいい「平和主義者」もいる・・・ケース・バイ・ケースだが、ときとして言葉を失う。
多分、
―「右のほほを殴られたら、左のほほも差し出せ」(新約聖書・マタイの福音書)は未だできない
→恐らく、昔そうであったように、(とばっちりで)殴られそうになったときは、その腕をパシっと受け止めて、「どうどう」と元の位置に収めるだろう。かわすのは大抵失敗して、次の一手にて、したたかに殴られる。基本は、武器を持たず、無抵抗 1)でいる予定―
そんな「平和主義」のキャベツとしては、
殴られても、その際しっかりギャグを言って和ませたり、
どんなに痛くても黙っていたり
するような「平和主義者」が多いせいで、
そのように感じるのかもしれない。
そういや、キャベツ兄弟で―大喧嘩はありえないが―ケンカが起こったときは、
替え歌
があった。
たとえば、「あ~ きの 夕~日~に~照~る山 も~みぃ~じ~」
ならば、
「キャベツの おばか~ぁ~・・・・」
というように替え歌にする。
同じ曲の中で、一区切りついたら、即興で相手が歌う。
が、大抵、途中でその理由となるフレーズとメロディーが合わなくなり、最後まで歌えたほうが勝ち。
・・・・なんとも、のどかやろ? (俺ら兄弟の誰が考え出したんだっけ・・・
キャベツ兄弟内については、平和デス)
【注】
1)ただし、自分の欲求だけを受け入れてもらおうとしたり、冷静に相手の話を聞くこともできず、議論にも弱い(というより、自分で議題提供しておきながら、その論旨の強い部分・弱い部分もわからず、相手の話をろくすっぽ聞けないとなると、そりゃあ議論が弱くても仕方ないでしょう・・・(ため息))となると、その方(+その方の論旨のまずささえ分からないまま追随し、援護になっていない不毛な援護―または足を引っ張っている“援護”―をする方)の周りだけは、難しいかもしれません。
学歴や世間での知名度等―それが心理的に何らかの影響を感じる方もいらっしゃるようですが―そんなものはある種どうでもいいのですが、ディベートをされたいならば、「(理論武装している)駄々っ子」ではなくて、大人である必要があります。
(某所において、もう数ヶ月前から緊張が高まっているのに、相変わらずの発言をされる方がいらっしゃるというのは・・・このままですと抑えられません。
今まで皆様、どんなに忍耐されているか分かっていますし。
せめて、振る舞いを「大人」にしていただかないと ・・・いい年にもうおなりなんですから。)
2)無抵抗:というよりは、どちらかというと、お茶を出しそうな予感。
というのも・・・話は変わるが、その昔上京するときに、すぐ下の妹に言われた一つに、
「東京に行ったらダメだ!!
キャベツ+兄/姉は、泥棒(どろぼう)が来たら、『どうぞ、どうぞ』とお茶を出して、話を聞きそうだから!!」
というものがあった。ある種、とんでもなくお人よしに見えたらしい。
いや、実際には、茶を出す前に―「どちら様ですか?」と尋ねたら―、ささっと逃げられましたよ、泥棒さんには。
まあ、そのとき具合が悪くて家で休んでいたときだから、お茶でオモテナシできたかどうか、不明ですが。
私は、ケンカが、嫌いだ。
(ちなみに、単純に、「大きくなったケンカ」を戦争という)
だが、
お互いにわだかまりがあったり、憎しみ合っているのに、表面上は取り繕っているよりは、
自分の言い分を述べて、ケンカするほうが、よっぽど正直者だと思う。
(ただし、周りの方々を巻き込まぬように)
相手に、自分の気持ちや意見を伝えたいからこそのケンカであれば。
それなら、最終的に仲直りできるだろう。 1)
一方、「自分はケンカがしたくない、平和主義者です」と言っていて、確かにケンカはしてはいないが、
相手を貶(おとし)めたり、罵(ののし)ったりする発言をする方もいる。
そして、そのような発言をされた相手がケンカをふっかけると「なんてヤツだ」と、相手をさらに見下す人もいる。
多分、本人は気付いていなかったのかもしれないが、・・・その言動不一致、もしくは火種となりそうな言動には、違和感を感じざるをえない。
(ディベートや何か問題について話し合わなければならないときに、その議題自体に焦点を当てずに、その相手側の論者を貶めるような下手な発言などをするのは、特にデス。)
また、自分だけ平和であればいい「平和主義者」もいる・・・ケース・バイ・ケースだが、ときとして言葉を失う。
多分、
―「右のほほを殴られたら、左のほほも差し出せ」(新約聖書・マタイの福音書)は未だできない
→恐らく、昔そうであったように、(とばっちりで)殴られそうになったときは、その腕をパシっと受け止めて、「どうどう」と元の位置に収めるだろう。かわすのは大抵失敗して、次の一手にて、したたかに殴られる。基本は、武器を持たず、無抵抗 1)でいる予定―
そんな「平和主義」のキャベツとしては、
殴られても、その際しっかりギャグを言って和ませたり、
どんなに痛くても黙っていたり
するような「平和主義者」が多いせいで、
そのように感じるのかもしれない。
そういや、キャベツ兄弟で―大喧嘩はありえないが―ケンカが起こったときは、
替え歌
があった。
たとえば、「あ~ きの 夕~日~に~照~る山 も~みぃ~じ~」
ならば、
「キャベツの おばか~ぁ~・・・・」
というように替え歌にする。
同じ曲の中で、一区切りついたら、即興で相手が歌う。
が、大抵、途中でその理由となるフレーズとメロディーが合わなくなり、最後まで歌えたほうが勝ち。
・・・・なんとも、のどかやろ? (俺ら兄弟の誰が考え出したんだっけ・・・
キャベツ兄弟内については、平和デス)
【注】
1)ただし、自分の欲求だけを受け入れてもらおうとしたり、冷静に相手の話を聞くこともできず、議論にも弱い(というより、自分で議題提供しておきながら、その論旨の強い部分・弱い部分もわからず、相手の話をろくすっぽ聞けないとなると、そりゃあ議論が弱くても仕方ないでしょう・・・(ため息))となると、その方(+その方の論旨のまずささえ分からないまま追随し、援護になっていない不毛な援護―または足を引っ張っている“援護”―をする方)の周りだけは、難しいかもしれません。
学歴や世間での知名度等―それが心理的に何らかの影響を感じる方もいらっしゃるようですが―そんなものはある種どうでもいいのですが、ディベートをされたいならば、「(理論武装している)駄々っ子」ではなくて、大人である必要があります。
(某所において、もう数ヶ月前から緊張が高まっているのに、相変わらずの発言をされる方がいらっしゃるというのは・・・このままですと抑えられません。
今まで皆様、どんなに忍耐されているか分かっていますし。
せめて、振る舞いを「大人」にしていただかないと ・・・いい年にもうおなりなんですから。)
2)無抵抗:というよりは、どちらかというと、お茶を出しそうな予感。
というのも・・・話は変わるが、その昔上京するときに、すぐ下の妹に言われた一つに、
「東京に行ったらダメだ!!
キャベツ+兄/姉は、泥棒(どろぼう)が来たら、『どうぞ、どうぞ』とお茶を出して、話を聞きそうだから!!」
というものがあった。ある種、とんでもなくお人よしに見えたらしい。
いや、実際には、茶を出す前に―「どちら様ですか?」と尋ねたら―、ささっと逃げられましたよ、泥棒さんには。
まあ、そのとき具合が悪くて家で休んでいたときだから、お茶でオモテナシできたかどうか、不明ですが。