その昔、キャベツは「喜怒哀楽」のうち、「喜」と「哀」しか抱かなかった。哀しいコトに対しては、感情を凍らせる
(無感覚にする、もしくは乖離させる)ことを学んでいた。
「怒」は、
「相手に期待しているからこそ、起こってしまうもの」「思い通りにいかないときに生じるもの」であり、「
期待を抱かなければ、怒ることもない」と考えていた。確かに、そういう面もあるだろう。
**************
だが、最近、神と人とのおかげで、「感情を凍らせる」という対処ではなく、表現できるようになった。ここ6,7年だ。
では、自分がいったいどのようなときに、怒るのだろう、と考えてみると、以下のようなものだった。
・暴力
・レイプ
・福音が、きちんと伝わるように語られていないとき
(例えていうならば、インフォームドコンセント時、医療者たちだけわかっても、患者に伝わっていない/患者が納得できない内容は、それは「きちんと伝わるように、語られていない」。せめて、なぜ、その必要性があるのか、きちんと説明しなければならない
。治療のごり押しは、意味がない。 選択の余地は、患者にある。だが、状況や必要性をきちんと説明するのは、こちら側の責任だ。)
・みことばよりも、自分(自分たち)を高みに置く考え方
(← 大抵無意識であり、自分たちがみことばそれ自体を軽んじていることに気付いていない。これは、「何々派」を形成することや、誰かの発言を高みに置くことも同様である)
・生きており、生き生きとしているものを、まるで死んだ腐った魚のように表すもの。
・せっかく、聖書の話だけ1時間もできるのに、全然別の内容を話すもの。だが、自分の哲学や考え方に引っ張っていくほうより、明らかに、無駄話であるもののほうが、まだ良い。
・「謙遜」ではなく、「自己卑下」するもの。
「私には何もありません」といって、頂いているタラントを地に埋め、磨こうともしないもの。それは、自分自身(のプライド)
は傷つかず、自己満足にさえ陥ってしまうが、実のところ、全体として大きな損失であり、かつ、
神に忌み嫌われる。
・本質的なことではなく、全然本質的ではない所での強要、つまづきを置くもの。
・主が与えないくびきを、「これは主のご命令だ」と言って、人に強いるもの(自分は、主に忠実なつもりであり、自分たちに従わないものは、「神に従っていない」のだと判断するもの。その昔、使徒行伝時代、
ユダヤ教徒からの改宗者が行っていたようなもの)。
・中身がナイヨウな話。(それは、皆の時間を無駄に奪うだけであり、皆を疲弊させるだけだ。)
・「形」だけ、どうにか整えようとすること。
(ex.「朝礼の時間」があるから、「話さなきゃ!」ではない。「話したい/伝えたい」ことがあるから、「朝礼の時間」を活用する のでなければ、本末転倒。そういう状況ならば、その時間は廃止したほうがいい。「止める」ことには、「始める」ことよりも、決断を要するだろうが。
ただ、そうなってしまっている場合、「形」より、先ず、人々がきちんと休息を取ったり、「自分と神との時間」をより持てるようにする必要がある。)
・理性(言葉)と心(思い)とが乖離した状態での、祈りや語り。
(話の巧拙、ではない。知識の多寡、ではない。たとえ、言葉は拙くとも、言葉と思いとが、一致しているかどうか。
心からのことばか、どうか。ただし、「自分はそう思っている」と思い込んでいる状況 ― 実際ニハ自分ヲモ偽ッテイルダケ ― は、そのクセが直るまでに時間はかかるだろう。)
・真実を偽りと取り換えるもの。
・弱い葦を折る/踏みつけるもの。
・自分(or自分たち)を神の位置に置き、自分たちとのつながりがなければ、「悪」だとするもの。それは慎重さとは、違う。 (加えて、
主のことばに反する場合にもつながる。)
・聖書それ自体ではなく、自分の考えに、聖書をパッチワークのように張り付けるもの(語る者は、よくよく吟味が必要)
・神が聖書や様々なことを通して教えようとしている時に、思考停止し、かつ、それを人にも強要するもの
(わからないからこそ説明を求められているのを、「議論」とカンチガイするようなモノは論外)
・壊れたスピーカーが、延々同じところだけ、ひどい音声でリピートしているようなもの。
・自己陶酔型の、論理破綻。
・自分の中にわだかまりがある状態で、パンとぶどう酒を頂くもの。
・みことばに付け加えて発言するモノ、みことばを少しでも取り除いて発言するモノ(それを自覚して発言するのはまだ良いが、それが「みことばそのもの」と勘違いして発言する者はよろしくない)
*************
今、ざっと挙げてみたが、
もしも-そうです、もしも万が一、デス-こういうことがある場合、キャベツの体内では、マグマが噴火しそうな感じになっている、らしい。少なくとも、アドレナリンが分泌されていると考えられる。
だが―、
もしも、こういうことがあったとき、それを怒るのは不当なことだろうか?
( ただし、エペソ4:26 )
『祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、
わたしのねたみを
イスラエル人の間で自分のねたみとしたことで、
私の憤(いきどお)りを 彼らから引っ込めさせた。
わたしは、わたしのねたみによってイスラエル人を絶ち滅ぼすことはしなかった。』
(旧約聖書・民数記 25章11節)