『私は主(しゅ)を愛する。
主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。
主は、私に耳を傾けられるので、
私は生きるかぎり主を呼び求めよう。』
(旧約聖書・詩篇116篇1-2節)
どの口がそれを言うのか。
それは、本日、看護師3名+ヘルパー2名のみで患者さん40数名みなければならなかった者。
(そして、それはごく日常でもある)
それは、朝、今日が一日無事に済むように、と祈り、
ちょうどパン裂き(聖餐式)の頃、それが守られますように、と、
作業をしつつ、ネヘミヤ 1)のような短い祈りをした者。
(・・・と、言うのも恥ずかしいが、たぶん、それは世界のあちらこちらで、言わずともささやかに、あること。
もし、自分が出席できたとしたら、
誰かが、そのために犠牲にならなければならない。
加えて、年配の方も多いと、
ときとして、パン裂きの最中に救急車、という事態だって起こる(実際、起こった)。
・・・何もない、というのはありがたい。)
それは、いつもより早く、まだお店が開いている時間に帰ることができた者。
(日勤で、21時や22時前に帰れるのは、ひっさびさ♪)
それは、帰ったとき、良い知らせを受け取った者。
(そうか、そうか。今日の福音集会、良かったのか。そいつは良かった)
それは、その昔、先輩の兄弟(故)から
「祈りで、人を動かすように」
と言われた者。
(彼もまた、さらにその前の先輩から言われた、とのこと。
そうなるためには、どれほど祈りに専念しなければならないことか。
どれほど、神様の-人の、ではなく-みこころにかなった歩みをしなければならないことか。)
・・・祈り-ああ、(ある意味)、6つ目の武具ですな(ビジュアル的には、他のもののような華やかさはないけれど。 cf.エペソ6章)。
正しく用いるならば、最も強力。
「山をも動かす」 2)
こともできるほどだが、
そもそも、それには
からしだねのような、ほんとに、こ~~~~~~んな小さな種ほどの信仰がなければ出来ない。
あんな、床にこぼれたら、探し出すのは至難の業、としか言い用のないほど、小さな種ほどの信仰、が、なければ。
だが、私自身、未だ知らず。
(それを知っている、といえる者が、何人いるのか)
ただ、こんな者をも、神様は守ってくださっている。
私は、
一体、何をもって、お返しできようか(cf.詩篇116:5-13)。
【注】
1)ネヘミヤ記2:4参照(ある人に、「聖書の中で、(時間としては)一番短い祈りだと思う」と昔言われたことがあるが。)
2)マタイの福音書17章20-21節参照。