『されど 我(われ)らの國籍(こくせき)は 天(てん)に在(あ)り』
(新約聖書・ピリピ 3章20節、文語訳)
2月のとある日。
「昨日は、おじいさんが召された日ですね」
と言われたとき、「覚えている人がいたのか・・・」とじんわりと暖かいものが広がった。
仏教と違い、私の知っている範囲では、クリスチャンが故人の命日に集まる、ということは
あまり無い。だが、ふと、その頃、想う。
「召されてから9年・・・もっと経っているような気がしました」
ともしみじみ言われた。
以前にも、他の方々から同じことを言われたことを思い出した。
(母方の)祖父や、彼の親友が召されたのが、もうかれこれ10数年以上経った気がする、と。それだけこの間、様々なことがあった、ということかもしれない。
だが、新しく(クリスチャンとして)生まれた者達は、すでに、その世代を知らない。
私が知っている武骨な“空気”や“感覚”を、「そうそう」「それが普通だった」とうなずいてくれるのは、今や70代以上が主となってしまった…ような感がある。
昔が(凡て)良い、と言う意味ではない。それらの積み重ねの上に、今がある、ということを知らない人々が多くなったということだ。
たった10年かそこらで、ここまで遠くに感じるならば、イスラエルが荒野で40年さすらったのち、
「主がイスラエルのためにされたわざも知らない」(士師記2:10)世代が起こったことも、全く不思議ではないように感じる。
故に、野に咲く花が忘れ去られるように人が彼方に忘れられたとしても、
彼らから受け継いだ良きものは受け継がれるように、と願う。
同時に、まだ地上にいる彼らの世代には、
-天国の方がどんなにかマシだ!ということは重々承知しておりますが-まだまだがんばっていただきたいと思う所存。
とりあえず、皆様、「キャベツの結婚式」があるその日までは、お元気でお過ごしください。
-Please take care until then.