さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

流しそうめん

2012-06-24 20:28:26 | 日々の雑感
(流しそうめん;写真はネットからの拝借デス)


 日傘がちらほら見られる日曜日の午後。

 集会から帰る途中、立ち寄ったスーパーでは店頭で流しそうめんをしていた。

 ふたつに割った竹を二つ。
 一つの竹は大人が手に持ち、もう一つは何かで支え、
 その上から、水とそうめんを流していた。
 むろん、「試食販売」という名目だったが、それでも、やっている大人たちも、そばにいる家族連れも、なんとまァ嬉しそうな顔(^^)

 どうぞどうぞと勧められるまま、子どもたちや年配の方々に交じって、
 ちゃっかり混ざってみた。

 ・・・なかなか、楽しいモノじゃありませんか。

 たぶん、「流しそうめん」だけでなく、この笑顔がいいのかもしれない。


    *****************

 そんなわけで、

 昨年、某キリスト集会であったように、こっちの集会でもランチのときに、外で流しそうめんできたら、楽しそうだなぁ(子どもから年配の方まで喜んでもらえるかなぁ)・・・、

 行事ではないんだし、特にお知らせなんぞしなくても、道行く人にももし「一緒にどうぞ」とできたら、いいなぁ・・・、

 そもそも、都会のど真ん中だが、集会所の外にもう少しスペースがあったら、、、現段階ではキビシイかなぁ・・・


 などと感じた日曜の昼下がりの一コマ 也。

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6月の台風

2012-06-19 21:12:59 | Thursday 生活
(あじさい)



台風4号、和歌山南部に上陸 震災被災地にも避難勧告(朝日新聞)

 6月は梅雨、台風は秋・・・と思いきや、もう、台風が来られるらしい。


 ただ今、東京ではすでに、どしゃ降りです。


   *****************


 かっぱと傘をかぶって風呂に行き、威勢の良い風と雨の音(ね)に嫌な予感がしつつ、帰ってみると、エレベーターホールでは雨漏りで、したたっていました(さすが、昭和○○年築)


 風呂に入ったあと、びしょ濡れではかわいそうだと風さんも思ってくれたのか、帰る最中は手加減してくれていたようですが、今、外からは、暴風雨と悲鳴が聞こえてきます。


   *****************


 今年は、ネパールやアフガニスタン、(昨年に引き続き)ブラジル等でもすでに洪水が起こっているようです。願わくば、皆、雨露をしのいで、暖かく過ごせますように。

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矢の如し

2012-06-19 00:09:49 | 日々の雑感


時間は短い。



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馬の気持ち、人の気持ち

2012-06-12 10:52:24 | ひとこと*古今東西
(2007年、八戸にて携帯で撮影)


 馬の厩舎(きゅうしゃ)にて、馬がぶふんぶふん、がっしがっしと暴れ始めたとき、
 八軒(主人公)はあわてるが、世話役の人は落ち着いており、
「ブラシかけろって言ってんだ」とブラシをかけはじめた。

 とたんに、馬の機嫌がなおった。

それを見た八軒たちは、
「すげーーーーーーーー。
馬の気持ちがカンペキにわかるんスね」


「さすがだぜ」

と感嘆。だが、世話役は、爆笑して言った。


       ********************

「なに 言ってんの!

 馬の気持ちなんて カンペキに わかる訳ないっしょ!!」


世話役、がははと、大・大・大笑い。


              *******************


「同じ人間同士でも

 分かり合えない奴がいるのに、

 種族の違うモンの

 気持ちが

 ホントにわかる訳 ねーべ!!」



(「銀の匙 Silver Spoon」一巻 P.131より)




(…至言です…)

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ペンギンの「性的堕落」に戦慄、100年前の南極探検隊員

2012-06-12 10:35:01 | Friday -news-
【6月11日 AFP】悲劇の探検隊として知られる英国のスコット南極探検隊の隊員が約100年前に書き残した記録から、この隊員がペンギンの「性的堕落」に衝撃を受けていたことが明らかになった。

                   

 9日の英紙ガーディアン(Guardian)によると、1911年から12年にかけての南極の夏にアデア岬(Cape Adare)で観察したアデリーペンギンの記録を残した探検隊員ジョージ・マレー・レビック(George Murray Levick)は、ペンギンの同性愛行為や幼鳥の虐待、オスのペンギンによるメスの死骸との交尾などを発見して非常に恐怖したという。レビックはこの観察結果を一般の人から隠すため、当初ギリシャ語で記録を書き残していた

 レビックは後に英語で書き直した論文の中で、雄のアデリーペンギンが「10羽前後で徒党を組み、丘のはずれに行ってはそこに住む他のペンギンに堕落した性行為を仕掛けて苦しめていた」と述べている。

                   

 スコット南極探検隊はノルウェーのアムンゼン隊と南極点初到達を競い、1910~13年にかけて遠征を行った。スコット隊はロバート・スコット(Robert Scott)隊長以下5人が南極点を目指して1912年1月17日に到達したが、ロアール・アムンゼン(Roald Amundsen)隊が1か月以上前に到達していた。さらにスコットら5人は帰路で遭難し、全員死亡した。

 一方、南極点に向かわなかったレビックは、探検隊の船テラノバ(Terra Nova)号が氷に阻まれ救助に迎えない中、他の5人と共に南極の一冬を氷穴の中で耐えしのいで生還した。

                   
 
 帰国したレビックはアデリーペンギンの習性に関する論文を書いたが、性的行動の部分はあまりに衝撃的だと考えて元の論文から削除し、別の短い論文としてまとめた。こちらは数人の研究者の間でひそかに回覧されただけだった。

 論文を発見した英国自然史博物館(Natural History Museum)の学芸員ダグラス・ラッセル(Douglas Russell)氏は、レビックが「堕落だ」と述べて恐れおののいたペンギンの行動は経験不足からくるものだと説明している。「アデリーペンギンは10月にコロニー(集団営巣地)に集まり繁殖を始める。繁殖期は1~2週間と短く、若いペンギンは経験がないためどう行動すべきか分からない。それが『堕落』に見えた行為に走らせている」と述べている。(c)AFP

AFPより転載>

                **************

 「そういう行動をとるのは人間だけかと思っていたら、実は、人間だけではなかったのか・・・」という驚きと同時に、その考察・説明に関して、「そういう帰結でエエものなんですかね・・・・・・?」(安直ではないだろうか?)という感想を抱く。

(ex.そもそも、ペンギンに対して、生殖行動に関して「異常」というならともかく、人間社会における「堕落」という価値基準をあてがうことは妥当か否か。

 その行動における原因を「経験不足」であるからとするのは、適切な帰結か否か。他に考えられる要素は?)

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有言実行

2012-06-11 07:31:09 | Sunday 集会・生活


 “自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。

  あくまでそれを続けなさい。

  そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。”


           (新約聖書・テモテ第一 4章16節)

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回心<ケセン語訳>

2012-06-06 23:00:35 | Sunday 聖書


 “心(こゴろ)ォ 切り換(ゲ)ァで、

  これがらァ ずっと この良(い)い便(たよ)りに

  その身も心(こゴろ)も委(ゆだ)ね続げろ。”


  
                     (マルコ1章15節,ケセン語訳)


※ケセン語:岩手県気仙地方のことば。


************



 「悔(く)い改めて 福音を信じなさい。」


                      (同上,新改訳)



************



 …「福音」とは「(神さまからの)すてきなお便り」ということです。「信じる」というのはギリシャ語のピステウオーの訳で、これは「信頼する」という意味です。


 …従来の訳ではここのところは「悔い改めて福音を信じなさい」(新共同訳)とされています。「悔い改める」はギリシャ語の動詞メタノエオーの訳ですが、わたしはそう訳しませんでした。メタノエオーの「メタ」は「変更・転換」のこと、「ノエオー」は「考える」ことですから、メタノエオーとは「考えを切り換える」こととしました。

 (・・・それ、表現は違えども同じことだから・・・「回心」と同意・・・それもまた、よいと思ふ。 byキャベツ)

 「悔いる」という日本語は過去の自分のおかした罪、失敗を反省し、二度とあのようなことはするまいと思い、そんないたらない自分を責める気持ちをあらわします。

 人間というものは必ずいろいろな失敗をします。

 それを真摯に反省して悔いることは人間の成長のためにとても大切なことです。


 ただひとつ問題なのは、いつまでも過去の失敗に捕らわれて、際限もなく自罰的態度を取りつづけることで、これは精神衛生上決して健全なことではありません

 それは何も生み出さず、人を絶望的な悲哀と暗闇の中にとじ込めてしまいます。


(コリント第二 7章10節を想い起こす・・・それにしても、「前者」を「後者」とごっちゃにしてしまっていることはないだろうか? または、理性は「前者」(のつもり)で、感情(心)は「後者」もしくは「行方不明」、という状況に、陥ってはいないだろうか? 感謝し続けるのと、後悔し続けるのとでは、180度異なる。

 これは、ある意味ある場合、わかりやすい。

 ただし、それと、神のお取り扱いとを早合点するのは早計だろう。  byキャベツ)



 後悔は、正しい道からそれた人間の行動の方向を再びもとの正しい方向にもどすという意味で大きな力を発揮するものですが、それ以上のものでありません。

 一度正しい進路に方向転換したら、後はもう過去のことに捕らわれず、明るくまっすぐに前へ進むことが大切です。


              (イエスの言葉 ケセン語訳,山浦玄嗣著,文春新書より)

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どちらが先か

2012-06-01 09:04:53 | 日々の雑感

 “然(さ)れば 我(われ)なんじらに示さん、

  神の御霊(みたま)に感じて語る者は、誰も『イエスは詛(のろ)はるべき者なり』と言はず、

  また聖霊に感ぜざれば、誰も『イエスは主(しゅ)なり』と言ふ能(あは)はず。”

                      (新約聖書・コリント人への手紙第一 12章3節,文語訳)




        *************



「聖霊が宿る(内在する)」のが先か、それとも「信仰告白」が先か、という問いは、

「鶏」が先か「卵」が先か、に似ている。

(使徒行伝が描かれている時代は、後者が先であったようだが…)

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はがゆい

2012-06-01 06:22:26 | 日々の雑感
 昨日の明け方、久々に悔しい思いをした。
 己をはがゆく感じた。@トリアージ。

         *********

 「悔しい」。義憤にかられる。「ふざけるな」。

 凍らせていた感情が開放されて以来、髪の毛が、スーパーサイヤ人のように突っ立ってしまうような程、そんな激しい想いに駆られることはしばしばあるのだが ― 外見は家族曰く「憎らしいほど冷静」らしいが、内部はマグマ也 ―
 己にまかされている範囲で、ここまで歯がゆい思いをしたのは、久々かもしれない。

         *********

 その昔、ここまで自分に歯がゆい思いをしたのは、中2(14歳)の頃だった。あのときに通じる。

 その頃、私はまだ、求道者 1)だった。
 2月の冬の寒い夜、― 確か、伝道者が、入院していたか、もしくは静養を命じられている頃― そんな私一人しかいない教会(集会)に、初めての方が来られたときだった。

  ―その方は、どのような思いで、こられたのだろう。―

 そのときほど、「早く、兄弟姉妹(クリスチャン)の皆、来て!!」と思った事はなかった。
 そのときほど、まだ自分がクリスチャンではなかったことを悔やんだことはなかった。
(モシ クリスチャンナラバ、何ヲ言ウベキカ、聖霊ガ教エテクレルダロウカラ 2))

 30分が1時間にも感じた。

 あのときを無駄にすまい。


         *********

 今回も、だ。自分。

 ガンバレ。自分。



【注】
1)求道者:キリスト教界において、ノンクリスチャンのうち、教会(集会)に来る人々を指す。その言葉が適当か否かはともかく、指し示されている対象は、その方々を意味する。

2)聖霊:三位一体、という言葉自体は聖書にはないが、いわゆる「父・子・聖霊」という三つの面(←というと、語弊があるなぁ…。でも、「位」というモノ自体、説明が難しい)を、聖書が示す神様は持っているが、クリスチャンの内には、聖霊(なる神)が内在する。

 ただ、恐れ多くも、人には自由が与えられているため、いくら神様が内(うち)にもいらっしゃるとはいえ、「神様由来の性質」を出せるか、それとも「人のマズイ性質」ばかりを出すのかは、その人のそのときの状態次第である。

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