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さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

自由を以って奴隷となす

2012-12-31 12:12:41 | Sunday 聖書


 『私はだれに対しても自由ですが、

より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。』

(新約聖書・コリント人への手紙 9:19)




        ************



 『ユダヤ人にはユダヤ人のように(9:20)』

   ・・・ ex.ユダヤ人の手前、ギリシャ人のテモテに割礼を受けさせた(本質的ではなく、文化的な側面では妥協or配慮 cf.使徒16:3)














    (⇔ ただし、本質的なことにおいては、きちんと主張(cf. ガラテヤ2:11-3:1))

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【圧縮】放蕩息子

2012-12-09 23:44:01 | Sunday 聖書

『死んでいたのが生き返り、
 いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』


                         (新約聖書・ルカの福音書15:32)



 「神の愛」とはなんぞや、というたとえ話のひとつに、「放蕩息子の話」というものがある。



 どんな話かと言うと、「あんたがくたばるのを待っていられないから、さっさと財産分けてくれ」と言うひどい息子に、いいよいいよと財産を分け与える親父の話だ。

  案の定、息子は湯水のように親父の金を使い果たし、無一文になり、落ちぶれに落ちぶれて、そこでようやく、親父の家に戻ろうと思う。

  さすがに、「親父にも、神さんにも悪かった。召使いでもいいから家に居させてくれ」と言おうと反省しつつ、息子がとぼとぼ帰途につくと、この親父さん、息子はまだまだ遠くにいるのに、息子だと気付いて、走って、ひしっとハグをして、とびっきりの着物や靴を着させ、子牛一頭まるまる屠(ほふ)って、宴会までし始めた。

  親元で、真面目にコツコツ仕事をしていた兄息子が、嫉妬するくらい、親父さんは、戻ってくるのを喜んだ。






 この親父さんが神様で、この放蕩息子が ―程度の差はあれ― 人間というものなのさ。


 これっくらい親バカな愛情の持ち主だから、・・・あなたが戻ってきたら、さぞ喜ばれるだろうて。

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信仰と行い <ケセン語訳>

2012-08-05 19:20:38 | Sunday 聖書


 
人(ひと)ァ その働(かせ)ぎィ見で頂(いだだ)いで、

 ああ、此奴(こいづ)ァいい奴(やづ)だ、

 可愛(めんこ)い奴(やづ)だど思って頂(いだだ)ぐのであって、

 ただ 神さまァどごォ 力(ちから)頼(たよ)りにしていますづゥだげでァ駄目なのだ。



 ……魂(たましい)のねァ体(かばね)ァ死んだものだが、それど同(おな)して、

 何(なん)にもしねァで、ただお任(まガ)せしてます、頼りにしてますでァ、

 死んでるものど同(おな)した。


                     
(ヤコブの手紙2:24-26,ケセン語訳)





人は行(おこな)いによって義(ぎ)とされるのであって、
信仰だけによるのではありません。

……魂のない肉体が死んだものであるように、
行いを伴わない信仰は死んだものです。(上記、新共同訳)

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回心<ケセン語訳>

2012-06-06 23:00:35 | Sunday 聖書


 “心(こゴろ)ォ 切り換(ゲ)ァで、

  これがらァ ずっと この良(い)い便(たよ)りに

  その身も心(こゴろ)も委(ゆだ)ね続げろ。”


  
                     (マルコ1章15節,ケセン語訳)


※ケセン語:岩手県気仙地方のことば。


************



 「悔(く)い改めて 福音を信じなさい。」


                      (同上,新改訳)



************



 …「福音」とは「(神さまからの)すてきなお便り」ということです。「信じる」というのはギリシャ語のピステウオーの訳で、これは「信頼する」という意味です。


 …従来の訳ではここのところは「悔い改めて福音を信じなさい」(新共同訳)とされています。「悔い改める」はギリシャ語の動詞メタノエオーの訳ですが、わたしはそう訳しませんでした。メタノエオーの「メタ」は「変更・転換」のこと、「ノエオー」は「考える」ことですから、メタノエオーとは「考えを切り換える」こととしました。

 (・・・それ、表現は違えども同じことだから・・・「回心」と同意・・・それもまた、よいと思ふ。 byキャベツ)

 「悔いる」という日本語は過去の自分のおかした罪、失敗を反省し、二度とあのようなことはするまいと思い、そんないたらない自分を責める気持ちをあらわします。

 人間というものは必ずいろいろな失敗をします。

 それを真摯に反省して悔いることは人間の成長のためにとても大切なことです。


 ただひとつ問題なのは、いつまでも過去の失敗に捕らわれて、際限もなく自罰的態度を取りつづけることで、これは精神衛生上決して健全なことではありません

 それは何も生み出さず、人を絶望的な悲哀と暗闇の中にとじ込めてしまいます。


(コリント第二 7章10節を想い起こす・・・それにしても、「前者」を「後者」とごっちゃにしてしまっていることはないだろうか? または、理性は「前者」(のつもり)で、感情(心)は「後者」もしくは「行方不明」、という状況に、陥ってはいないだろうか? 感謝し続けるのと、後悔し続けるのとでは、180度異なる。

 これは、ある意味ある場合、わかりやすい。

 ただし、それと、神のお取り扱いとを早合点するのは早計だろう。  byキャベツ)



 後悔は、正しい道からそれた人間の行動の方向を再びもとの正しい方向にもどすという意味で大きな力を発揮するものですが、それ以上のものでありません。

 一度正しい進路に方向転換したら、後はもう過去のことに捕らわれず、明るくまっすぐに前へ進むことが大切です。


              (イエスの言葉 ケセン語訳,山浦玄嗣著,文春新書より)

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味方

2012-04-28 12:21:12 | Sunday 聖書
 昔、あるお弟子さん(現代だと「キリスト者」「クリスチャン」)が、イエス・キリストにこう言った。

 **************

「先生。
 私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。

 私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。」


 しかしイエスは、彼に言われた。

「やめさせることはありません。
 あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」


(新約聖書・ルカの福音書9章49-50節)

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タラントのたとえ

2012-02-27 20:38:19 | Sunday 聖書
(サハラの朝日)

  【予備知識】タラント:
    昔のイスラエルの通貨単位であり、1タラント=6,000デナリ。1デナリ=1日分の賃金。
   (今の日本円で言えば、1タラント=6000万円)
    以下のたとえ話から、転じて、タラント(talent)=才能、賜物の意。日本語の「タレント」はここに由来。

      *************


天の御国(みくに)は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。

彼は、おのおのその能力に応じて、

 ひとりには5タラント、

 ひとりには2タラント、

 もうひとりには1タラントを渡し、それから旅に出かけた。

      *************

5タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、
 さらに5タラントもうけた。

同様に、2タラント預かった者も、
 さらに2タラントもうけた。

ところが、1タラント預かった者は、出て行くと、

 地を掘って、

 その主人の金を隠した。


      *************

さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰ってきて、彼らと清算をした。

すると、5タラント預かった者が来て、もう5タラント差し出して言った。

  『ご主人さま。
   私に5タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。
   私はさらに5タラントもうけました。』

 その主人は彼に言った。

  『よくやった。
   良い忠実なしもべだ。
   あなたは、わずかな物に忠実だったから、
   私はあなたにたくさんの物を任せよう。

   主人の喜びをともに喜んでくれ。』


2タラントの者も来て言った。

  『ご主人さま。
   私は2タラント預かりましたが、ご覧ください。
   さらに2タラントもうけました。』

 その主人は彼に言った。

  『よくやった。
   良い忠実なしもべだ。
   あなたは、わずかな物に忠実だったから、
   私はあなたにたくさんの物を任せよう。

   主人の喜びをともに喜んでくれ。』


         ***********


ところが、1タラント預かっていた者も来て、言った。

   『ご主人さま。

    あなたは、蒔(ま)かない所から刈り取り、
    散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。

    私はこわくなり、出て行って、あなたの1タラントを地の中に隠しておきました。

    さあどうぞ、これがあなたの物です。』


…主人は彼に答えて言った。

   『悪いなまけ者のしもべだ。

    私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていた というのか。

    だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。
    そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。


    だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを10タラント持っている者にやりなさい。』


           **************

だれでも持っている者は、与(あた)えられて豊かになり、

 持たない者は、持っているものまでも取り上げられる
のです。・・・

                    (新約聖書・マタイの福音書 25章14-30節)

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地獄に落ちた男 (1)

2012-01-24 23:00:30 | Sunday 聖書
     「地獄に落ちた男(1)」
     「地獄に落ちた男(2)」
     「地獄に落ちた男(3)」


      *************


 前もって断っておきますが、

「この世(地上)で生きていることが、地獄だ」とか、

「そもそも、オレタチって、生きているの? 本当に、今、自分は存在しているの?」という

辛い感覚や切実な問いかけは、申し訳ありませんが、ここでは脇に置かせていただきまして。。。




 これは、

 いわゆる、この世の後の世界の話。
 人が死んだあと行く、ここではないどこかの話。


 ある男が、「地獄」に落ちたときの話。by Holy Bible

        ***********


(続く)

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地獄に落ちた男 (2)

2012-01-24 22:54:29 | Sunday 聖書
     「地獄に落ちた男(1)」
     「地獄に落ちた男(2)」
     「地獄に落ちた男(3)」


「地獄に落ちた男(1)」の続き)

         ***************

 ある男がいた。 1)
 彼は、地獄(じごく)にいた。
 それは、火と硫黄(いおう)の池だという。 2)

 彼は、焔(ほのお・炎)の中で、
 もだえ苦しんでいた。


         ***************


 火に焼かれるとはどんなものか。

 やけど、ならある。

 …足の一本とそこら、やけどを負ったことがある。
 (一晩中、のた打ち回っていた。)
 …マイナス196℃の液体窒素で、肌をほんの少々焼いたこともある。
 (激痛だった。)

 どちらにせよ、もう味わいたくないものだ。


         ***************

 火を味わった人がいる。

 魔女狩りで、火あぶりにあった女性たち。
 殷の紂王の炮烙(ほうらく)。  3)
 古代ローマの「ぺリルスの牛」。 4)
 江戸時代の「温泉岳地獄」。   5)
 1998年のジャカルタ(コタ)で起きた暴動…暴行後、燃え盛る火の中に投げ入れられ、炭化した遺体。
 ・・・等々。

 「死んだ方がましだ」という気がする。
 彼らは、死によって、この世の地獄と別れられた。

 だが、死さえ、もはや憩(いこい)とはならない。

****************

(なぜなら、)

彼は、すでに死んでいる。


****************



 そんな激しい、逃れようのない苦しみの中、
 彼は、あることを願った。


(続く)



【注】
1)新約聖書・ルカの福音書16章19-31節参照。

2)新約聖書・ヨハネの黙示録20章10節。
  西洋だろうと東洋だろうと、「地獄」「ハデス」のイメージの多くは、「炎」らしい。


3)炮烙(ほうらく):猛火の上に多量の油を塗った銅製の丸太を渡し、その熱された丸太のうえを罪人に裸足で渡らせるもの。


4)ぺリルスの牛:古代ローマにおける、真鍮(しんちゅう)でできた巨大な牛の姿をした処刑器具。

  牛像の胴体部分の扉をあけ、罪人を中に押し込めて錠をおろすと、中からは二度と出られない。
  そして、牛の下で薪を積み上げて火を焚くと、真鍮のためすぐに牛像は高熱を帯び、真っ赤に焼ける。
  中でいぶされる罪人は苦しみのあまり絶叫するが、その声は牛の吠え声そっくりに聞こえるという。

  シチリア王パラリスの命で、ぺリルスが発案したが、発案者自身が最初の犠牲者となった。
  最近では、映画『赤ずきん』(ハードウィック監督)にて、パロディのひとつとして登場する。



5)温泉岳地獄:江戸時代のキリシタン弾圧で使用された拷問。
        雲仙岳の硫黄泉に信者を浸して、転宗を迫るもの。

  まず、キリシタンを裸にして両手両足をしばり、地獄谷の池に立たせ、背中を断割って、傷口に熱湯をひしゃくで注ぎ込む。
  次に、硫黄がたぎっている中に、キリシタンの全身を浸けたり、引き出したりするのを、繰り返す。体中がただれ、皮膚がやぶれ、つぎつぎと苦しみながら息絶えていくという。
  この拷問にあって棄教したものが60数名、殉教したものは33名にのぼった。

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地獄に落ちた男 (3)

2012-01-24 22:49:19 | Sunday 聖書
     「地獄に落ちた男(1)」
     「地獄に落ちた男(2)」
     「地獄に落ちた男(3)」


「地獄に落ちた男(2)」の続き)


         ***************


「父アブラハムよ、我を憐(あわれ)みて、ラザロを遣(つか)わし、その指の先を水に浸して 我が舌を冷やさせ給(たま)え」          (ルカ16:24、文語訳)


         ***************


 彼の願いはふたつあった。
 ひとつは、この苦しみが和らぐこと。


         ***************


 だが、その願いは、叶えられなかった。

 アブラハムは言う。
「ここ(天国)とそこ(地獄)との間には、大きな淵(ふち)があるのだ」
と。そして、行き来することはできないのだ、と。

 …蜘蛛の糸 1)はないらしい




         ***************


 そこで、男は、もうひとつ願った。

「さらば父よ、願わくは 我が父の家にラザロを遣わ給え」(ルカ16:27)
と。
 自分には、兄弟が5人いるのだ、と。
 こんな耐えがたい苦しみのところへ来なくていいように、
 彼らに言い聞かせてほしい、と。

 誰かが甦り、「あの世はこうなんだよ」と言ってあげたら、
 悔(く)い改めるに違いない、と。

 彼は、兄弟を想い、切にそう願った。


         ****************


 だが、アブラハムの答えは、こうだった。

「もし モーセと預言者(=聖書)とに聴かずば、

 たとえ死人の中(うち)より甦る者ありとも、

 其の勧めをいれざるべし」
  
         (ルカ16:31)


 確かに・・・。 2)





  彼のもう一つの願いが叶うかどうかは、私たち自身がどう歩むか、だ。



【注】
1)蜘蛛の糸:芥川龍之介『蜘蛛の糸』参照。

2)たとえ、「私は1万年先から来ました。これから先、この世界はこうなります」とさえ言われても、確かに、信じがたい。
いわんや、死後の世界をや。
  (たとえ、私らの先祖や友人、愛する人々や様々な方々がそう願っていたとしても、結局、もともと、聖書やら何やら聞いていなければ、「死後の世界」から使者が来ても信じられるわけがない。)

   無に帰する?

   それはそれで、虚しい。

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善きサマリヤ人(びと)

2011-05-01 22:51:30 | Sunday 聖書

  『…あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛しなさい。』(レビ記19章18節)

 イエス・キリストがいた当時、「聖書」と言えば、今で言う旧約聖書のみだった。

 毎週土曜日、会堂(シナゴ―ク)にて、聖書の朗読がなされた。
 イスラエル(≒ユダヤ)の人々は皆、それを聞いて知っていた。


          *************

 そして、ある人がイエス・キリストに尋ねた。(どういう意図か、この後のシュールなさま等は割愛)

 「では、私の隣人とは、だれのことですか?」

         

 そのときに話されたのが、今日、『良きサマリヤ人のたとえ』と呼ばれる有名な話である。


         

 ・・・ちなみに、前もって言っておくと、

  ■この当時、ユダヤ人とサマリヤ人は、犬猿(けんえん)の仲。
   道ですれ違ったとしても、決して話をしなかった、とさえ言われている。

  ■祭司、レビ人、というのは、神様に仕える良い人たち(のハズ)

 です。

          *************


             


  ・・・「ある人が、エルサレム(イスラエルの首都)からエリコへ下る道で、強盗に襲われた。

  強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、

  半殺しにして逃げて行った。



       


  たまたま、祭司(さいし)がひとり、その道を下って来たが、

           彼を見ると、

  反対側を通り過ぎて行った。



        



  同じようにレビ人も、その場所に来て


        彼を見ると、




    反対側を通り過ぎて行った。



            



 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、

 彼を見てかわいそうに思い、

 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、

 ほうたいをし、

 自分の家畜に乗せて宿屋(やどや)に連れて行き、

 介抱(かいほう)してやった。


  
 (レンブラント「良きサマリヤ人」(エッチング)1633年)
        


 次の日、彼はデナリ二つ(=当時の二日分の賃金)を取り出し、

 宿屋の主人に渡して言った。

 『介抱してあげてください。

  もっと費用がかかったら私が帰りに払います。』



              


 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか?」


                (新約聖書・ルカの福音書 10章30-36節)



              

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