“心(こゴろ)ォ 切り換(ゲ)ァで、
これがらァ ずっと この良(い)い便(たよ)りに
その身も心(こゴろ)も委(ゆだ)ね続げろ。”
これがらァ ずっと この良(い)い便(たよ)りに
その身も心(こゴろ)も委(ゆだ)ね続げろ。”
(マルコ1章15節,ケセン語訳)
※ケセン語:岩手県気仙地方のことば。
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「悔(く)い改めて 福音を信じなさい。」
(同上,新改訳)
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…「福音」とは「(神さまからの)すてきなお便り」ということです。「信じる」というのはギリシャ語のピステウオーの訳で、これは「信頼する」という意味です。
…従来の訳ではここのところは「悔い改めて福音を信じなさい」(新共同訳)とされています。「悔い改める」はギリシャ語の動詞メタノエオーの訳ですが、わたしはそう訳しませんでした。メタノエオーの「メタ」は「変更・転換」のこと、「ノエオー」は「考える」ことですから、メタノエオーとは「考えを切り換える」こととしました。
(・・・それ、表現は違えども同じことだから・・・「回心」と同意・・・それもまた、よいと思ふ。 byキャベツ)
「悔いる」という日本語は過去の自分のおかした罪、失敗を反省し、二度とあのようなことはするまいと思い、そんないたらない自分を責める気持ちをあらわします。
人間というものは必ずいろいろな失敗をします。
それを真摯に反省して悔いることは人間の成長のためにとても大切なことです。
ただひとつ問題なのは、いつまでも過去の失敗に捕らわれて、際限もなく自罰的態度を取りつづけることで、これは精神衛生上決して健全なことではありません。
それは何も生み出さず、人を絶望的な悲哀と暗闇の中にとじ込めてしまいます。
(コリント第二 7章10節を想い起こす・・・それにしても、「前者」を「後者」とごっちゃにしてしまっていることはないだろうか? または、理性は「前者」(のつもり)で、感情(心)は「後者」もしくは「行方不明」、という状況に、陥ってはいないだろうか? 感謝し続けるのと、後悔し続けるのとでは、180度異なる。
これは、ある意味、ある場合、わかりやすい。
ただし、それと、神のお取り扱いとを早合点するのは早計だろう。 byキャベツ)
後悔は、正しい道からそれた人間の行動の方向を再びもとの正しい方向にもどすという意味で大きな力を発揮するものですが、それ以上のものでありません。
一度正しい進路に方向転換したら、後はもう過去のことに捕らわれず、明るくまっすぐに前へ進むことが大切です。
(イエスの言葉 ケセン語訳,山浦玄嗣著,文春新書より)