goo blog サービス終了のお知らせ 

さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

友人が病院まで車いすをおしてきた人と昔の話

2013-07-27 09:05:15 | Sunday 聖書
 ちょっといい話があるんです。

 もちろん、ご本人には許可をもらって、こうやって話すんですがね、

 今日、検査のために来た方のうち、70代の方がいるんですがね、この人、ご友人がわざわざ車いすを押して、病院まで連れて来て、しかも、その検査、1時間以上もかかるのに、終わるまで待ってくれるっていう、なかなか無い話があったんですよ。

 ほら、病院って混むじゃないですか。
 時間もお金もかかる。
 いまどき、一緒に来てくれる人って、家族か、ヘルパーさんか、優しいご近所さん。

 ご家族でも来ない人もいるこのご時世に、同じく年配のご友人が、車いすを押して、一緒に来て、待って、一緒に帰ってくれる。なかなか、ないですよ。

 いや~~~~、自分が70過ぎたとき、そんな友達がいるかな、って、思ってしまいましたよ。ホント。
 そういう人がいるっていうだけでなく、自分がそういう友達関係を築けるかな、って。



 加えて、昔、イエスさんがいたときの話を思い出したんですよ。

(もう、かれこれ2000年前の話ですがね。)

            ****************


 あるところに、病気で動けない人がおりましてね、ご友人4人でえっちらほっちらイエス様のところに運んできたときの話なんですがね、・・・あの当時、ストレッチャーもないし、担架(たんか)なんですかね、運ぶのはホント大変だったと思いますよ。・・・そのとき、イエス様の周りにはもう、人がわんさかおりまして、その家には、どうにもこうにも入れなかったんですよ。


            ****************


 フツウ、そうなっていたら、あきらめるじゃないですか。フツウは。

 だけど、その人たち、「イエス様のところに来たら、治る!!」と強く信じていたんでしょうね。


 なんと、・・・、あっち(中東)の昔の家って、土やわらでこう四角く作るじゃないですか・・・その家の屋上に上って、その屋根を壊してですね、そのご病気のお友だちを、よいしょよいしょとイエス様の前に下ろしたんですよ。


 いやはや、中にいる人、びっくりしたでしょうね。
 頭の上から土やほこりが落ちてきたと思ったら、ぽっかり穴が空いて、人が降りて来るんですから。

 そしたら、イエス様。先ず最初に、
「あなたの罪は赦されました」
と、おっしゃったんですよ。


            ****************

「え、どんな罪があるっていうの?」
と聞いてくれていた人が、尋ねた。

 キャベツは、黙って、人差し指を上に向けた。
尋ねた人は、その指の指し示す方向を見た。

数秒して答えがなかったので、

キャベツは、小さな声でこそっと答えた。

「そもそも、人の家の屋根を壊しているんですが」

「あ、そっか」

多分、ソノ時ノ 家ノ持チ主ハ、非常二 青ザメテイタ ト 思イマス。


            ****************

 まあ、それを聞いていた学者さん達やお偉いさんが、こう心の中でぶつぶつ言っていたわけです。
「罪を赦すのは、神にしかできないのに、こいつ…」

 そうしたら、イエス様は、それをわかって、お前たち、心の中で何つぶやいているんだ、『罪が赦される』のと『起きて歩く』のと、どっちがやさしいかとまあ諭(さと)すわけですが。

 そのあと、キセキが起きて、その人は病気が治って、めでたしめでたし、という話なんですがね…



 今日のことも、なかなか、ちょっといい話でした。

 



(どこの話?と思った方は、新約聖書・マルコ2:1-12, ルカ5:17-26

 なぜ、聖書の話が出て来るの、と思う方もいるかもしれませんが、ごめんなさい、キャベツの構成要素なのでどうしてもついつい出てきてしまうんですよ、悪しからずご了承ください。
 逆に、「なぜ、もっと聖書の話をしっかりしない!!」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、ごめんなさい、たとえそうしたくても、そういうとき・場ではありませんから、悪しからずご了承ください。)



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デドモと呼ばれたトマス(0)

2013-06-30 07:03:41 | Sunday 聖書

「見ずに信じる者は幸いです」 (by キリスト)



 「佐藤さ~~~~~ん」と、検査で名前が呼ばれた。「はい」と、年配の男性が立った。だが、彼は「齋藤さん」だった。



         ************


 ・・・から、つらつらと書いたものの、「導入」が長くなったため、ばっさり切ることにした。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デドモと呼ばれたトマス(1) a

2013-06-30 06:29:03 | Sunday 聖書
『十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、
イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。
 「あの方の手に釘(くぎ)の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、
この手をそのわき腹に入れてみなければ、
わたしは決して信じない」。


  (新約聖書・ヨハネの福音書20:24-25,新共同訳)』






 イエスの弟子の中に、『疑い深いトマス』というレッテルを貼られた人がいる。

 デドモ(英:Didymus,希:Δίδυμος「双子」)と呼ばれるトマス(アラム語でも「双子」)
  イエスの12弟子のひとり、この『双子』さんは、諸説あるもののなぜ『双子』と呼ばれたのかは不明。イエスの死後、インドに伝道したとも言われる人だ。

 私は、彼を好きではなかった。
 今回、ここを伝えるよう示され(別訳:インスピレーション)なかったら、しばしば「もったいない使われ方」をされる箇所だね、で終わっていただろう。

 だが、何と言うべきか。
 イエス自身が、「わたしは十字架につけられ、死者の間からよみがえる」と説明しても
十字架刑ののち、女たちが「先生が生き返った!」と伝えても弟子たちは、信じなかった
 つまり、疑い深い(信じられなかった)のは、トマスだけではないのだが、このトマスだけが、後世まで『疑い深いトマス』と、語り継げられている。(可哀そうに)

 その元となったのは、おそらく、冒頭の「目に見える証拠を!」と要求した場面だろう。


     ***************


 さて、ここで「イエスは復活したんです!」だけを取り上げるのはフェアではない。


     ***************



 では、もしも「イエスは復活しなかった」としたら?

 トマス以外の弟子たちは、イエスを処刑させたユダヤ人たちを恐れたあまりに、狂言を言ったのだろうか。
 それとも、集団錯覚にでも陥ったのだろうか。
 実は、別の人がイエスの代わりに十字架にかかったのだろうか。
 実は、イエスはもともと死んでいなかったのだろうか。

 その伝道のために、何百人、何千人の人が死んだ、というのは、それに対する説得性のある答えにはならない。なぜなら、うそ偽りのためでさえ、人は信じて死んでいき(ex.太平洋戦争)、信念や信仰ゆえに殉教するのは、ムスリムだろうと仏教徒だろうと共産主義の人であろうと、同様だからだ。それでは、『説明』にならない。


 もしも「イエスが復活しなかった」としたら?
 話は簡単だ。

 もし、イエスが十字架にもかからず、
 復活もしていなかったとしたら。

 聖書
-この当時は、書簡-自身が言っている。

「私たちは、全ての人の中で一番哀れな者」(コリント第一 15:19)
 である
、と。


       *****************


 では、逆に、もしも、本当に「イエスが復活した」としたら?

 イエスを見た者たちは、
「イエス様を見ました!」
「お墓に行ったら、かくかくしかじかで・・・!!」
「信じられないんですが、本当なんです!!」
「私が言っているコトを信じてください(>_<)!」
と言うしかないだろう。DNA鑑定? 指紋採取? そんなもの、2000年前にあるわけがない。

 だが、そんなことを言われた身になってほしい。
「そりゃ、先生が生き返ったらいいけれど・・・」
「そりゃあ、先生は、色んな奇跡をなすったけれども・・・、さすがに・・・」
「おい、嘘八百言うんじゃねえ。人が生き返るんなんざ、エリヤの時代じゃねえか。・・・あ、ラザロがいたっけ」
「いやいやいや。いやいやいや。」
「もうちっと、確証となる証拠、見せてくれません?」
となるだろう。

 見た者は見た、としか言いようがない。
 聞いた者は、信じられない、としか言いようがない。

 それぞれの中に、そのことをめぐって、フラストレーションがたまっていく。

前者「せっかく、いい話を伝えたのに・・・!」

後者「一体、何が面白くて、そんなバカげた話を言うんだ。いい加減にしてくれ」


 どんどん、溝は大きくなる。



         **************


 あのときは、結局、

 両者の間に、イエスご自身が現れることによって、解決した。



 だが、現代は?
 あの当時も今も、同じ問題が続いている。

 だが、今、一人ひとりに、イエスご自身が肉体を持って現れる、ということはない。




 あのとき、「見ずに信じる者は幸い」だと、イエスご自身がおっしゃったこと、
そのときの手がかりとなる聖書それ以外には、私たちには遺されていない。



 私たちの間には、大きな隔(へだ)たりがある。



 


 この大きな溝(みぞ)は、いったいどうすれば、解決するだろう。


(To be continued)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デドモと呼ばれたトマス(1) b

2013-06-30 05:39:10 | Sunday 聖書
(絵:グェルチーノ(Guercino, 1591-1666, 伊)「聖トマスの懐疑」)


 『・・・イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
  それからトマスに言われた。
  「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。
   手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。
   信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」


  (新約聖書・ヨハネの福音書 20:26-27)







 というわけで、さつきの頃そこを示されてから1か月近く、うんうんと悩んでいた。

 ありがたいことに、イエスは、
「四の五の言わず、信じろ!」
「論理じゃない! 受け入れるんだ!!」
・・・などと、無茶を言う方ではない。

 冒頭にあるように、トマスに対して、確認することを勧めている。
 <それを信じることも。>


(あのときのように、イエス様が現れてくれたら、ありがたいんだが・・・)

 トマス然り。
 キリスト者を迫害していた、サウロ(のちのパウロ)然り。


 見た者は、見た、というほかなく、
 見ていない者は、信じられない、と言う。

 信じた者は、本当なんだ!、と言い、
 聞かされた者は、まさか、と言う。

 ある人々は信じ、ある人々は笑う(使徒28:24, 17:32)

 これに関しては、
 足して2で割る、ということは不可だ。


(とは言っても、私たち自身、肉体をもったイエス・キリストを見たわけではないんだよな)


 だが、信じている。
 これは、信じたいから、信じたわけではない。
 何かにすがりたかったから、信じたわけではない。

 信じざるをえなかったから、信じた。

(・・・どうして、『信じざるをえなかった』んだろう。
 私は、『いわゆるクリスチャンホーム育ち』ではなく、クリスチャン1世の方々のほうが近いのだが)


 場合によっては、『クリスチャン3世』と思われることも多いが、

 私の状況を知る人は、
「あの状況下で、よくまあ、集会(教会)に来たり、クリスチャンになったもんだ」と評する。


 言っておくが、

 周りに流されて、『信じる』ものではない。逆も然り。 (きっぱり)



(・・・ん~、結局・・・あの大きな隔たりが解決するためには・・・)


 祈りの中であれ、
 夢の中であれ、
 大自然の中であれ、
 何かのふとしたきっかけであれ、

 人は、個人的な 神との出会いが不可欠なんだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デドモと呼ばれたトマス(2)

2013-06-30 04:51:31 | Sunday 聖書


『イエスは彼(トマス)に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。
 見ずに信じる者は幸いです。」』


        (新約聖書・ヨハネの福音書 20章29節)






 「で、トマスの話は、その後、どうなったの?」と、友人レタス(仮名)に聞かれたのは、もう、かれこれ1か月前だったような気がする。そのとき、こんな会話が繰り広げられた。


         **************


キャベツ「かくかくしかじか

レタス「それは、わかった。
    だが、そこで伝えたいのは、『見ずに信じる者は幸い』ってことなんじゃないの?

    そもそも、『見ずに信じる者は幸い』って、どういう意味なんだ?

    たとえば、逆に「見て、信じた者は幸いではない」のか?」


           **************


キャベツ「いやいや、見ても見なくても、信じたら幸いだよ」

レタス「そもそも、ここでいう『幸い』って、何?
    クリスチャン的には、「見たほうが幸い」(あの当時、直接イエス様に会いたかった)と思うんじゃないの?」

キャベツ「う~~~む・・・」

    (いや~、こっちは、「イエス様がそういうなら、そうなんだろ」、と、それだけで十分だったからなぁ。確かに、どういう意味で、イエス様は、こうおっしゃったんだろう? いやはや、こういう友人がいるのはありがたい。

キャベツ「…確かに、直接には理由は書いていないよね。山上の垂訓では、それを受け入れるかどうかは別として、『幸い』である理由を述べられているが…」



              ***********


 う~~ん、う~~~~ん、と悩んでいるキャベツに、レタスはヒントをくれた。

レタス「じゃ、『見ずに信じる者』に該当する者は誰?」

キャベツ「そりゃ、あの当時、イエスを直接見ずに信じた人たち…使徒行伝から今に至るクリスチャン…私たち、でしょう。 あと、旧約の聖徒たち、かな。 彼らは、『これからメシヤ(救い主、キリスト)が来る』ということを、見ずに信じていたわけだから。
     あれ、そういえば・・・」

 キャベツは、聖書をめくり始めた。
 (確か、そうだ、あそこに・・・)


           *************


 …というわけで、このあとは皆様の番です。

 (あなたは、そのみことばについて、どう示されましたか?)





(ちなみに、キャベツはこのとき、ペテロ第一,へブル11章,創世記15章6節,ローマ4章と示されましたが、はてさて。

 ここでは、その後は書かず、あえて、問題提起の部分まで、とさせて頂きます。)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宿題Q:進化論を打破せよ

2013-06-10 08:22:25 | Sunday 聖書
(一応、あのときの会話に関する掲載許可は頂いた・・・ハズ)

 あるとき、母方のおじ(以下 M人)と電話で話していた時。祖父からの宿題や、友人からの宿題の話になり、M人は、がははと笑い、こう言った。

「そりゃ、先ず、『進化論を打破』しないとな。オレからも、一つ、宿題を出してやる。

     『進化論を打破しろ!』


   



キャベツ「いや、『論』は『論』だからさ、たとえ一つ打破したとしても、また違う『論』が、ぽこぽこぽこ、と出て来るよ。そんなものに時間を費やしたくはない」

M人「お前な~。わかってないな。
   日本が、どれだけ『進化論』に侵(おか)されているかって。
   日本人は、「進化『論』である」ってことさえ、わかっていないんだぞ」


キャベツ「まあ、そうかもしれないけれど。
     とはいえ、東○大の大学院とかで、生物学専攻していた挙句、『進化論はまゆつばものだ』と言う人が昔いたけれど、それはその人が、それを専攻していたからこそ、言えるわけで。そこに元々興味がない私が、そういった事どもを引用して、『それは違うだろう』と言ったって、全く説得性がない」

   



    「それに、測定法次第で、地球の歴史も、数千年から―46億年どころか―何百億年までの“誤差”があるらしいし、ね」

(『科学的』であることを、盲信する人はいるようだが・・・神が『いる/いない』の確率は、もしも科学的(?)に言うならば、確率1/2
 また、『いない』と証明するのは、『いる』と証明するよりも難しい

 とはいえ、そもそも、人間の人智を超える存在について言及するのだから、『科学的』云々の範疇外の話だろう


「続き」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続 宿題Q

2013-06-10 07:47:05 | Sunday 聖書
前記事「宿題Q」

 さて、そののち、M人(おじ)により、『進化論は間違いである』という熱弁を30分ほど拝聴した、気がする。(それを私キャベツは活用できそうにないが…)

 そうして、かくかくしかじかと聖書のことなど話し合いながら、キャベツは、ふと尋ねた。
「でも、どうして、それで、集会に来ていないん?」

 すると、M人は、何やら凄まじい勢いで、何かのお話を20分ほどしてくれたのち、こう言った。

「(ぜいぜいぜい)どうだ、お前がオレに何かを言うなんて、100年早いんだよ」

キャベツは答えた。

「そっか・・・。ふむ、ちょっと早すぎたんだね。ごめん。うん、0.1日早かった 1)









すると、M人は、電話の向こうで1,2秒黙ったのち、

「何事かと一瞬、考えたじゃね~か。そうか、なるほどね 1)
  だから、お前はキライだ(笑)

と、がははと笑った。



 【注】1)新約聖書・ペテロ第二 3:8

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリスチャン&ノンクリスチャンの皆様に

2013-06-09 07:58:11 | Sunday 聖書
 クリスチャン、ノンクリスチャン問わず、友人各位へ。

 インターネットのほとり、こちらのブログまでお越しいただき、ありがとうございますm(_ _)m





 こちらのブログは、キャベツの近況報告およびキャベツワールドなわけですが、こののちしばらく

5年近く避けてきた“宿題”のメモ、すなわち、聖書関連の“メモ”が増えることが予想されます。



 これに関して、一つ皆様に誤解されたくないのは、「キャベツが“教える”ため」に書いているのではない、ということです。
 逆に、間違ったことが書かれていた場合、速攻にお知らせ頂けるので、ありがたい限りです。

 加えて、もしも、少しでも“共有”できたら、めっけもんだと思っております。





 はっきり言って、自分、何かしらをする、ことはできないと思っています。

 ただ、私の及ぶ範囲で、私を通して行われることを妨げないようにしよう、と思いました。
 それが何なのか、まだ、よくわかっておりません。

 ただ、目の前に、こんもりとした課題があり、
 ある宿題が―すでに期限切れなのか不明ですが―迫っているのみです。


 これについては、散々、私自身は逃げ、かつ、他の人々を(ある意味)こき使って、それをクリアしようとしてきたのですが、どうやらそれは許されないようです。
 もし、自分に課せられた宿題をしなければ、
 もし、自分が負った負債を返さなければ、
 私自身が罰せられるでしょう。
 


 そういうわけで、クリスチャンの方々には、ご理解とお力添えを、なにとぞお願いいたしますm(_ _)m


 また、ノンクリスチャンの方々には、「聖書わーるどばっかりだが、まあ、宿題なら仕方がないな」「そういう話もあるのか」…とご理解をいただけたら、と存じますm(_ _)m


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不思議なラオデキヤ

2013-04-29 11:11:22 | Sunday 聖書
黙示録1-3章にある7つの教会※1については、いくつか言われている。

  ・「時代区分」(ディスペンセ―ション)
  ・同じ時期であっても、様々な状態の「教会(集会)」がある 等。

 その7つ目の教会が「ラオデキヤ」。白い衣、目薬、金、時代・・・etc前半はよく学ばれているが、この前、池袋でふと思ったのは、そのあとの部分だった。


  ※1私たちの群れでは、大抵「集会」と使われるが、ここでは表記に従い、「教会」とする。


     *************

ラオデキヤの「不思議」― 主(しゅ)が不在
                ― 「教会」と呼ばれている


  主が不在でも、それは「教会」足りえるのか?

      ⇔「ふたりでも三人でもわたしの名において集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)


  「教会」とは何ぞや?
     ・広義では、建物をも指すが、元々は、その集まり(エクレシヤ)。

      -鯛焼きは、鯛が無くても“鯛焼き”
      -メロンパンは、メロンがなくても、“メロンパン”

      →“教会”も?? (反語)


     *************


 とても、不思議だ。


「教会」の定義

   - ×建物(であるならば、中途半端はやめてけろ。
            大学の教養の音楽の講義で、「自分たちのお古を、神や上の人に献上するのはOKだが、逆に、神のお古を使うのは×って、不思議だよな~」なんて話もあったことを思いだす。
            だが、建物自体は、本来、何に使用してもOK(ex.教室)
            もし、神聖視するならば、それに見合った形、にしようよ。
            また、神聖視しないにしても、わざわざ醜く / 使いにくく する必要はない。)



   - ○    「2,3人」「主の御名のもとに集う」

 ということにすると、、、




では、なぜ、ラオデキヤでは「主が不在」だったのか。

     ・「2,3人」=信者 → 「主の御名」によって、ではなく、他の何かが中心となって集っている?
                    (ex.高慢、誰かを中心とする派閥 etc)
                       ↓
                  確かに、ラオデキヤは「満たされ」ていた。cf.コリントの教会


           ⇔だが、人々はそんなつもりはない
            主もまた、それを「教会」と呼んでいる


もし、その状態がマズイと思う(感じる)ならば、どうすれば良いか?


   ↑「悔い改める」・・・ということは、その状況下であるならば、人々は皆、“ことば”としては知っている。


もし、その状態が続くならば、それはどうなってしまうのか?

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラオデキヤにある教会のみつかいに

2013-04-29 10:01:00 | Sunday 聖書

 また、ラオデキヤにある教会の御使(みつか)いに書き送れ。

 『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。

 「わたしは、あなたの行いを知っている。

  あなたは、冷たくもなく、熱くもない。

  わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

  このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、

  わたしの口からあなたを吐き出そう。


************


  あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏(とぼ)しいものは何もないと言って、

  実は自分がみじめで、哀(あわ)れで、貧しくて、盲目で、裸(はだか)の者であることを

  知らない。



************


  わたしはあなたに忠告する。

  豊かな者となるために、火で精錬された金(きん)をわたしから買いなさい。

  また、あなたの裸の恥(はじ)を現さないために着る白い衣(ころも)を買いなさい。

  また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。



************


  わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。

  だから、熱心になって、悔い改めなさい。


************



  見よ。

  わたしは、戸の外に立ってたたく。

  だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、

  わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。



************


 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座につかせよう。

 それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座(みざ)に着いたのと同じである。


************



 耳のある者は、御霊(みたま=聖霊)が諸教会に言われることを聞きなさい。」』



                  (新約聖書・ヨハネの黙示録3章14-22節)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする