『死んでいたのが生き返り、
いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』
(新約聖書・ルカの福音書15:32)
「神の愛」とはなんぞや、というたとえ話のひとつに、「放蕩息子の話」というものがある。
どんな話かと言うと、「あんたがくたばるのを待っていられないから、さっさと財産分けてくれ」と言うひどい息子に、いいよいいよと財産を分け与える親父の話だ。
案の定、息子は湯水のように親父の金を使い果たし、無一文になり、落ちぶれに落ちぶれて、そこでようやく、親父の家に戻ろうと思う。
さすがに、「親父にも、神さんにも悪かった。召使いでもいいから家に居させてくれ」と言おうと反省しつつ、息子がとぼとぼ帰途につくと、この親父さん、息子はまだまだ遠くにいるのに、息子だと気付いて、走って、ひしっとハグをして、とびっきりの着物や靴を着させ、子牛一頭まるまる屠(ほふ)って、宴会までし始めた。
親元で、真面目にコツコツ仕事をしていた兄息子が、嫉妬するくらい、親父さんは、戻ってくるのを喜んだ。
この親父さんが神様で、この放蕩息子が ―程度の差はあれ― 人間というものなのさ。
これっくらい親バカな愛情の持ち主だから、・・・あなたが戻ってきたら、さぞ喜ばれるだろうて。