今週の火曜日は通院日でした。
前回もダンナが仕事で、車では行けなかったので
電車からバスと乗りついで行きましたが
車で行くと直線で行くのに、交通機関ではすごく迂回するのが
どうも理不尽な感じがして、お天気も良くなったことだし
今回は自転車で行ってみました。
30分くらいと予想していたら20分で着いてしまい
あんまり早くから行っても仕方がないので、ふらふらとブックオフへ。
伊藤計劃さんのブログで見かけた「太陽の塔」という本を
100円でゲットしました。その後病院へ。
実は最初の面談の時に、先生が「検査などはあまり頻繁には
しません」という意味のことを言われていて
これは緩和ケアという性格上
検査で変化が見つかったとしても
「あれをしましょう。これをしましょう」というわけではないし
私自身も、何か見つかったら見つかったで
家族や友人に心配をさせることになるので
本音は、なるべく検査を回避したかったのですが…。
当然その辺は家族にはバレていて
前回も「血液検査はしてもらった?」と突っ込まれました。
「いや、あの…ごにょごにょ。この次はしてもらうから」と約束してしまったので
おそるおそる先生に「あのお、家族が血液検査をしてもらえと」と言ったら
先生笑って「子どもさんが心配されてるんでしょう」と。
さすが先生、分かってらっしゃる!
ただ今度の病院は、前のところのような設備がないので
検査の結果は、次回の診察日、一ヶ月後ということでした。
もうそれで全然O.Kです。
告知されたのは一年前ですが、前にも書いたように
最初に腫瘍に気付いたのはおととしの5月で
もしその時点で、いわゆる抗がん剤、放射線といった標準治療を受けた場合
私の、ステージⅣの乳がん、手術不能、遠隔転移ありの症状での
生存期間中央値(100人がその治療を受けて半数の人が生きている期間)は
およそ2年なのだそうです。
私の場合はあと2か月でそのラインになります。
自分の病気については、のんきなことばかり書いているみたいですが
それは病気を楽観視しているというのとは少し違います。
事実は事実として認識しています。
けれどこの生存期間中央値と言われるものも
たとえば乳がんステージⅣでの5年生存率20数パーセントというのも
すべて確率であって、ひとりひとりの可能性を保証するものではありません。
ですから告知をされてからの私に見えているのは
せいぜい3か月、長くても半年先くらいまでですが
それも病気の性格上確実ではないこともわかっています。
前のブログで引用したエミリー・ブロンテの詩の最後にある
何ものにも囚われない一人の人間として、勇気をもって
生に堪え、死に堪えてゆく、ということだけだ
エミリー・ブロンテはお世辞にも恵まれた境遇ではありませんでしたが
作品の中では、すべての常識的なもの、キリスト教すらも否定し
「何ものにも囚われない一人の人間」でありたいと願い続けます。
そして魂の自由を求めることにかけては
ほとんど暴力的で破壊的でさえあります。
いじましく幸福や救いを求めたりするのではなく
勇気を持って堪えるために闘うのです。
ですから「嵐が丘」という小説は、恋愛小説としてもとても特異で
主人公たちの論理はめちゃくちゃで、ほとんど破綻していますから
万人に理解され評価される小説ではないかもしれませんが
私なんかはそこにものすごく魅力を感じます。
「生に堪え」とは、必ずしも辛いこと、悲しいことを
ぐちぐち、じぐじぐと我慢するという
受け身な生き方ではありません。
人は幸せなこと、嬉しいこともすべて含めて
生きることそれ自体の重さに堪えていくものであり
同じように、全ての命あるものが逃れることはできない
死の現実を見据えて生きる。
自分の魂が自由であれば
それができるということなのだろうと理解しています。
私は今までの人生の中で
世の中にたくさんある既成の宗教に魅力を感じたことも
強く共感したこともない人間ですが
この詩が訴えるような、ある宗教的なイメージは分かります。
そしてこの詩の意味するところが理解できたなら
人間は依存症なんかにはならずに生きていけるような気がするのです。
前回もダンナが仕事で、車では行けなかったので
電車からバスと乗りついで行きましたが
車で行くと直線で行くのに、交通機関ではすごく迂回するのが
どうも理不尽な感じがして、お天気も良くなったことだし
今回は自転車で行ってみました。
30分くらいと予想していたら20分で着いてしまい
あんまり早くから行っても仕方がないので、ふらふらとブックオフへ。
伊藤計劃さんのブログで見かけた「太陽の塔」という本を
100円でゲットしました。その後病院へ。
実は最初の面談の時に、先生が「検査などはあまり頻繁には
しません」という意味のことを言われていて
これは緩和ケアという性格上
検査で変化が見つかったとしても
「あれをしましょう。これをしましょう」というわけではないし
私自身も、何か見つかったら見つかったで
家族や友人に心配をさせることになるので
本音は、なるべく検査を回避したかったのですが…。
当然その辺は家族にはバレていて
前回も「血液検査はしてもらった?」と突っ込まれました。
「いや、あの…ごにょごにょ。この次はしてもらうから」と約束してしまったので
おそるおそる先生に「あのお、家族が血液検査をしてもらえと」と言ったら
先生笑って「子どもさんが心配されてるんでしょう」と。
さすが先生、分かってらっしゃる!
ただ今度の病院は、前のところのような設備がないので
検査の結果は、次回の診察日、一ヶ月後ということでした。
もうそれで全然O.Kです。
告知されたのは一年前ですが、前にも書いたように
最初に腫瘍に気付いたのはおととしの5月で
もしその時点で、いわゆる抗がん剤、放射線といった標準治療を受けた場合
私の、ステージⅣの乳がん、手術不能、遠隔転移ありの症状での
生存期間中央値(100人がその治療を受けて半数の人が生きている期間)は
およそ2年なのだそうです。
私の場合はあと2か月でそのラインになります。
自分の病気については、のんきなことばかり書いているみたいですが
それは病気を楽観視しているというのとは少し違います。
事実は事実として認識しています。
けれどこの生存期間中央値と言われるものも
たとえば乳がんステージⅣでの5年生存率20数パーセントというのも
すべて確率であって、ひとりひとりの可能性を保証するものではありません。
ですから告知をされてからの私に見えているのは
せいぜい3か月、長くても半年先くらいまでですが
それも病気の性格上確実ではないこともわかっています。
前のブログで引用したエミリー・ブロンテの詩の最後にある
何ものにも囚われない一人の人間として、勇気をもって
生に堪え、死に堪えてゆく、ということだけだ
エミリー・ブロンテはお世辞にも恵まれた境遇ではありませんでしたが
作品の中では、すべての常識的なもの、キリスト教すらも否定し
「何ものにも囚われない一人の人間」でありたいと願い続けます。
そして魂の自由を求めることにかけては
ほとんど暴力的で破壊的でさえあります。
いじましく幸福や救いを求めたりするのではなく
勇気を持って堪えるために闘うのです。
ですから「嵐が丘」という小説は、恋愛小説としてもとても特異で
主人公たちの論理はめちゃくちゃで、ほとんど破綻していますから
万人に理解され評価される小説ではないかもしれませんが
私なんかはそこにものすごく魅力を感じます。
「生に堪え」とは、必ずしも辛いこと、悲しいことを
ぐちぐち、じぐじぐと我慢するという
受け身な生き方ではありません。
人は幸せなこと、嬉しいこともすべて含めて
生きることそれ自体の重さに堪えていくものであり
同じように、全ての命あるものが逃れることはできない
死の現実を見据えて生きる。
自分の魂が自由であれば
それができるということなのだろうと理解しています。
私は今までの人生の中で
世の中にたくさんある既成の宗教に魅力を感じたことも
強く共感したこともない人間ですが
この詩が訴えるような、ある宗教的なイメージは分かります。
そしてこの詩の意味するところが理解できたなら
人間は依存症なんかにはならずに生きていけるような気がするのです。
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