私がパートをしているお店の
社長のお母さんはそろそろ90才。
もちろんお店の仕事にはもう関わってなくて
体調のいい時は事務所でテレビを見たりしながら
過ごしているのだが
用事があって事務所にいくと
「生きていても何もいいことがない」
「もういつお迎えがきてもいい」みたいな愚痴を
絶えずこぼしている。
相手の年を考えれば寛容に応対してあげたいが
お金に不自由はしていないし
息子や娘、孫たちもほとんどが身近にいて
少し具合が悪いといっては病院や針灸に行く。
それで「不幸だ不幸だ」と言われたら
病気をしても病院に診せることもできない
十数年を過ごしてきた私にはコメントのしようはない。
店のお客さんにも年金を頼りに生活している人や
子どもたちが遠方で所帯を持って
夫婦二人だけ、あるいは一人暮らしのお年よりも多い。
客観的に見れば幸せなはずなのにその自覚がない。
ずっとそのおばあちゃんを見ていて
結局自分を幸せにできるのは自分自身
だけなんじゃないかと思う。
ドラマなんかでお金や地位や力があっても
必ずしも幸せではないみたいな話があるのは
そういうことなんだろうな。
つまるところ自分の心の持ちよう一つで
幸せにも不幸にもなるのが人間なんだろうと思う。
自分で幸せだということを認識できないと
今度は回りの人が自分を気にかけて優しくしてくれないことで
自分は不幸なんだという他者依存型になる感じなのだ。
こういう思考回路はおそらく年齢には関係がない。
でも他人が自分を愛してくれないから
自分は不幸と思っている人間は
他人を幸せにするという発想がないから
優しさや気配りや思いやりがなく
回りから疎まれるという悪循環になっていく。
お金がなくてギャンブルができないから
自分は人生に何も楽しいことがない
生きていても意味がないと考えるような
ギャンブル依存症の人も同様だ。
その思考回路を少しづつずらしていければ
人生が変わる可能性だってある。
いつも言っていることだが
自分も家族も体が健康でちゃんと働ける仕事があって
食べたり寝たり暮らしていけるお給料がもらえる
そのこと自体が人間として
十分幸せと呼べることなのだと心から思い定めることができれば
勝っても金負けても金、金以外に何もなくてしかも
わずかの金を手にするために全てを失うという地獄のような
無限ループから抜け出して
生きることがずいぶん楽になるのではないかと思うのだが。
社長のお母さんはそろそろ90才。
もちろんお店の仕事にはもう関わってなくて
体調のいい時は事務所でテレビを見たりしながら
過ごしているのだが
用事があって事務所にいくと
「生きていても何もいいことがない」
「もういつお迎えがきてもいい」みたいな愚痴を
絶えずこぼしている。
相手の年を考えれば寛容に応対してあげたいが
お金に不自由はしていないし
息子や娘、孫たちもほとんどが身近にいて
少し具合が悪いといっては病院や針灸に行く。
それで「不幸だ不幸だ」と言われたら
病気をしても病院に診せることもできない
十数年を過ごしてきた私にはコメントのしようはない。
店のお客さんにも年金を頼りに生活している人や
子どもたちが遠方で所帯を持って
夫婦二人だけ、あるいは一人暮らしのお年よりも多い。
客観的に見れば幸せなはずなのにその自覚がない。
ずっとそのおばあちゃんを見ていて
結局自分を幸せにできるのは自分自身
だけなんじゃないかと思う。
ドラマなんかでお金や地位や力があっても
必ずしも幸せではないみたいな話があるのは
そういうことなんだろうな。
つまるところ自分の心の持ちよう一つで
幸せにも不幸にもなるのが人間なんだろうと思う。
自分で幸せだということを認識できないと
今度は回りの人が自分を気にかけて優しくしてくれないことで
自分は不幸なんだという他者依存型になる感じなのだ。
こういう思考回路はおそらく年齢には関係がない。
でも他人が自分を愛してくれないから
自分は不幸と思っている人間は
他人を幸せにするという発想がないから
優しさや気配りや思いやりがなく
回りから疎まれるという悪循環になっていく。
お金がなくてギャンブルができないから
自分は人生に何も楽しいことがない
生きていても意味がないと考えるような
ギャンブル依存症の人も同様だ。
その思考回路を少しづつずらしていければ
人生が変わる可能性だってある。
いつも言っていることだが
自分も家族も体が健康でちゃんと働ける仕事があって
食べたり寝たり暮らしていけるお給料がもらえる
そのこと自体が人間として
十分幸せと呼べることなのだと心から思い定めることができれば
勝っても金負けても金、金以外に何もなくてしかも
わずかの金を手にするために全てを失うという地獄のような
無限ループから抜け出して
生きることがずいぶん楽になるのではないかと思うのだが。