「1984年」は、1949年に
イギリスの作家ジョージ・オーウェルが書いたSF小説の古典の1冊です。
全体主義の恐怖を描いた小説として
トランプさんが大統領に就任した際には
アメリカでベストセラーになり、話題になりました。
これも伊藤計劃さん経由で知った本で
伊藤さんの影響で読んだ何冊かのSFの中では
一番衝撃を受けた本でもありました。
どういうお話かというと
「核戦争後の1984年、世界はオセアニア、ユーラシア
イースタシアの3つの超大国に分かれている。
オセアニアの、ロンドンに住むスミスは、党の役人として
日々歴史を改変する作業に従事していた。
オセアニアは、ビッグ・ブラザーという指導者に統治されていて
国民は、党中枢、党外部という、支配者に属する層と
それ以外の、国民の85%を占める、プロールと呼ばれる
下層階級の労働者層に分かれていた。
プロールと呼ばれる下層階級に対する政治教育は行われておらず
党が許す範囲での娯楽(酒、ギャンブル、スポーツ)や
党が制作した映画、音楽、ポルノなどが提供されている」という世界です。
これはWikipediaからの要約ですが
この小説で描かれる全体主義は
最近しばしば話題になっているアノ国の全体主義とは、かなり様相が違います。
ほとんどの国民に対する、厳しい思想の統制などは行われていないのに
全体主義が成立する社会というのが、まず衝撃的でした。
本の中に、こういう一節があります。
「きつい肉体労働、家庭と子どもの世話、隣人とのつまらぬいざこざ
映画、サッカー、ビール、そして何よりもギャンブル
それがかれらの心を占めるすべてである。
かれらをコントロール下に置くことは難しくない」
サッカーという表現は、イギリスならではなのでしょうが
映画をテレビに、サッカーをスポーツ全般に置き換え
ギャンブルに、スマホやオンラインゲームを加えれば
今、私たちの多くが送っている日常と大差ないような気がするのです。
大衆を制御するには、ギャンブルが不可欠という発想には
「う~ん」と思わざるをえません。
どんな底辺の人間でも、ギャンブルやスポーツによって
偽りの勝利感や達成感を味わえるからでしょうか。
もう一つは「ニュースピーク」という、言葉の単純化です。
「<良い>という単語がありさえすれば、<悪い>という単語の必要が
どこにある?<非良い>で十分間に合う。(中略)
<素晴らしい>とか<申し分のない>といった語をはじめとして
山ほどある曖昧で役立たずの単語など存在するだけ無駄だろう。
そうした意味は<超良い>で表現できるし、もっと強調したいなら
<倍超良い>を使えばいいわけだからね」
つまり「良い」という言葉と、その変化形だけが用いられて
「悪い」「素晴らしい」「申し分のない」などは排除され、消滅します。
その結果、人の思考はどんどん簡略化され、単純になって
政治や思想を表現できるような言葉はなくなって
文学などは「ニュースピーク」を用いて書き換えられた結果
本来の意味とは似ても似つかぬものになるというわけです。
私が読んだ「1984年」は、高橋和久さんの新訳で
<超良い><倍超良い>という訳し方に
思わず笑ってしまいましたが、なかなかの名訳です。
最近、お友達と「気になる表現」についてやり取りしました。
生活の中でも、メディアなどでも
何となく違和感を感じる言葉を耳にすることが増えました。
<超良い>とか<倍超良い>みたいな表現も
「超~」「マジで~」などと普通に言ってますし
130字のツイッターはいまや長いほう
ラインなどはワンフレーズとか絵文字のみでもO.Kとなれば
もはや言葉は必要ないんじゃなかと思います。
私のように、ブログ書くのに、うだうだぐだぐだ言葉を連ねるのは
「ウザい」「ダサい」「暗い」「重い」の見本みたいなものです。
けれど「1984年」を読むと、全体主義の社会というのは
必ずしも、悪魔のような独裁者が、すべての国民を統制し、力で服従させなくても
人々から、物事を考えることができる言葉を奪い
不平不満のガス抜きのために
安手の娯楽や、スポーツや、ギャンブルを与えておけば
日々の暮らしに追われ、疲れて、考えることを放棄した人々を
権力者の思うようにあやつることができる、そういう社会だと暗示されています。
これが、今私たちが生きている社会と、あまり大きく違わないように感じるのは
私の被害妄想なのでしょうか。
ひと月に一冊も本を読まない人が3割になり
「本を読まなければいけない理由がわからない」という人もいて
言葉なんかいらない、ひいては人間が2千年ちかい時を費やして考え続け
築いてきた、あらゆる文化的なものが消滅していくような時代で
本当に大丈夫なのか、結果やっぱり人類は消滅するんじゃないのか。
だからこそ「1984年」は、SF小説の傑作なのでしょう。
ちなみに「1984年」は、漫画版も出ています。
こういうSFは、中高生の間に読んだほうがいいと
伊藤計劃さんも、推奨しておられました。
「この世界がまったく理不尽な場所で、わたしたちは
それをどうしようもないのだ」ということを知るために。
イギリスの作家ジョージ・オーウェルが書いたSF小説の古典の1冊です。
全体主義の恐怖を描いた小説として
トランプさんが大統領に就任した際には
アメリカでベストセラーになり、話題になりました。
これも伊藤計劃さん経由で知った本で
伊藤さんの影響で読んだ何冊かのSFの中では
一番衝撃を受けた本でもありました。
どういうお話かというと
「核戦争後の1984年、世界はオセアニア、ユーラシア
イースタシアの3つの超大国に分かれている。
オセアニアの、ロンドンに住むスミスは、党の役人として
日々歴史を改変する作業に従事していた。
オセアニアは、ビッグ・ブラザーという指導者に統治されていて
国民は、党中枢、党外部という、支配者に属する層と
それ以外の、国民の85%を占める、プロールと呼ばれる
下層階級の労働者層に分かれていた。
プロールと呼ばれる下層階級に対する政治教育は行われておらず
党が許す範囲での娯楽(酒、ギャンブル、スポーツ)や
党が制作した映画、音楽、ポルノなどが提供されている」という世界です。
これはWikipediaからの要約ですが
この小説で描かれる全体主義は
最近しばしば話題になっているアノ国の全体主義とは、かなり様相が違います。
ほとんどの国民に対する、厳しい思想の統制などは行われていないのに
全体主義が成立する社会というのが、まず衝撃的でした。
本の中に、こういう一節があります。
「きつい肉体労働、家庭と子どもの世話、隣人とのつまらぬいざこざ
映画、サッカー、ビール、そして何よりもギャンブル
それがかれらの心を占めるすべてである。
かれらをコントロール下に置くことは難しくない」
サッカーという表現は、イギリスならではなのでしょうが
映画をテレビに、サッカーをスポーツ全般に置き換え
ギャンブルに、スマホやオンラインゲームを加えれば
今、私たちの多くが送っている日常と大差ないような気がするのです。
大衆を制御するには、ギャンブルが不可欠という発想には
「う~ん」と思わざるをえません。
どんな底辺の人間でも、ギャンブルやスポーツによって
偽りの勝利感や達成感を味わえるからでしょうか。
もう一つは「ニュースピーク」という、言葉の単純化です。
「<良い>という単語がありさえすれば、<悪い>という単語の必要が
どこにある?<非良い>で十分間に合う。(中略)
<素晴らしい>とか<申し分のない>といった語をはじめとして
山ほどある曖昧で役立たずの単語など存在するだけ無駄だろう。
そうした意味は<超良い>で表現できるし、もっと強調したいなら
<倍超良い>を使えばいいわけだからね」
つまり「良い」という言葉と、その変化形だけが用いられて
「悪い」「素晴らしい」「申し分のない」などは排除され、消滅します。
その結果、人の思考はどんどん簡略化され、単純になって
政治や思想を表現できるような言葉はなくなって
文学などは「ニュースピーク」を用いて書き換えられた結果
本来の意味とは似ても似つかぬものになるというわけです。
私が読んだ「1984年」は、高橋和久さんの新訳で
<超良い><倍超良い>という訳し方に
思わず笑ってしまいましたが、なかなかの名訳です。
最近、お友達と「気になる表現」についてやり取りしました。
生活の中でも、メディアなどでも
何となく違和感を感じる言葉を耳にすることが増えました。
<超良い>とか<倍超良い>みたいな表現も
「超~」「マジで~」などと普通に言ってますし
130字のツイッターはいまや長いほう
ラインなどはワンフレーズとか絵文字のみでもO.Kとなれば
もはや言葉は必要ないんじゃなかと思います。
私のように、ブログ書くのに、うだうだぐだぐだ言葉を連ねるのは
「ウザい」「ダサい」「暗い」「重い」の見本みたいなものです。
けれど「1984年」を読むと、全体主義の社会というのは
必ずしも、悪魔のような独裁者が、すべての国民を統制し、力で服従させなくても
人々から、物事を考えることができる言葉を奪い
不平不満のガス抜きのために
安手の娯楽や、スポーツや、ギャンブルを与えておけば
日々の暮らしに追われ、疲れて、考えることを放棄した人々を
権力者の思うようにあやつることができる、そういう社会だと暗示されています。
これが、今私たちが生きている社会と、あまり大きく違わないように感じるのは
私の被害妄想なのでしょうか。
ひと月に一冊も本を読まない人が3割になり
「本を読まなければいけない理由がわからない」という人もいて
言葉なんかいらない、ひいては人間が2千年ちかい時を費やして考え続け
築いてきた、あらゆる文化的なものが消滅していくような時代で
本当に大丈夫なのか、結果やっぱり人類は消滅するんじゃないのか。
だからこそ「1984年」は、SF小説の傑作なのでしょう。
ちなみに「1984年」は、漫画版も出ています。
こういうSFは、中高生の間に読んだほうがいいと
伊藤計劃さんも、推奨しておられました。
「この世界がまったく理不尽な場所で、わたしたちは
それをどうしようもないのだ」ということを知るために。
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