ここ数年邦画の興行成績が上昇している。
筋金入りの邦画ファンとしてはうれしいが
若者が邦画を好むのは「字幕を読むのがめんどうくさい」
「字幕が難しくて読めない」というのが理由だという話には
少なからずショックを受けた。
自国語の日本語がちゃんと読めない書けないというのは
実は相当に深刻な問題だと思う。
もしも言葉がなかったらと考えると世の中は
おそらく想像を絶するほど混沌としているだろう。
人間は長い時間をかけて言葉に共通の意味を与え
全ての秩序を維持するためのツールにしてきたのだから。
これは言葉の通じない相手と向き合う場面を想像してみればいい。
相手が何で怒っているのかわからない。
何が嬉しいのか悲しいのか、何が欲しいのかわからない。
相手の主張も感情も何も分からないのでは対処のしようがない。
今の日本で起こっている若者の引きこもりやコミュニケーション下手の
問題の根っこにあるのは案外そういうことなのではないか。
親は何はともあれそこそこ勉強さえしていればいいと
小さい時から子どもの心に関することには無関心。
兄弟の数も少ないし大勢の友人と遊ぶ機会も減って
わいわいと自己主張をしたり
幼いながらに上下関係があったりという
心を表現する言葉を使うことがない。
まして遊び相手がゲームなどモニターの画面では
しゃべる必要もなくしゃべっても返事は返ってこない。
これでは相手の気持ちを考える上でも自分の気持ちを表現するのにも
必要な言葉を使いこなす能力が身につくはずもない。
何も若者に限ったことではない。
依存症になったうちのダンナにしても
自分の気持ちを言葉にして表現するのがてんから苦手だし
家族の気持ちを思いやることもできなかった。
さらに悪いことに世の中にはゲームやパチンコ・スロットなど
そういう傾向を助長するようなものがあふれ返っている。
実は日本人の精神をとことん破壊しようという闇のプロジェクトみたいなものが
粛々と進行しているんじゃないかとまで考えてしまうのだ。

相手が何を感じどう考えているかを
自分の脳で言葉を使ってシミュレーションする能力や習慣は
成長していきなりできるようになるものではない。
小さい時からの親子、兄弟、友人との色々な経験と
それを補完する読んだり書いたりの繰り返しが一緒になって
徐々にコミュニケーションのレベルが上がっていく
そういうものではないかと思う。
かつてダンナに「子どもぼろぼろ産んで白い飯さえ食べさせて
おけばいいというもんじゃない」と言ったことがある。
ギャンブルにはまって家庭を破綻させたことについて
ひとりダンナだけの責任ではなく親も悪いと
今でも私は心の底で思っている。
学問があるとかないとかそういう問題でもない。
優しいだけでもダメ、厳しいだけでもダメ
というよりそういう表面的なことではなく生き様の問題なのだと思う。
「人間として何が一番大切か」
それをどういう形でどういう言葉で
こどもに伝えることができるのかできないのか
それはまた私自身が自分に突きつけられている問いでもある。
この前から書いているが、宗教に依存しているような人間は
その部分を全て他人が作った借り物で間に合わせている。
確かに簡単で楽でいいだろうが
本当にそれでいいのか、正しいのかといえば私は絶対にそうは思えない。
自分の心で感じること、自分の言葉で話すこと。
自分が今生きてあることの意味はそこにしかないと考えるからである。
筋金入りの邦画ファンとしてはうれしいが
若者が邦画を好むのは「字幕を読むのがめんどうくさい」
「字幕が難しくて読めない」というのが理由だという話には
少なからずショックを受けた。
自国語の日本語がちゃんと読めない書けないというのは
実は相当に深刻な問題だと思う。
もしも言葉がなかったらと考えると世の中は
おそらく想像を絶するほど混沌としているだろう。
人間は長い時間をかけて言葉に共通の意味を与え
全ての秩序を維持するためのツールにしてきたのだから。

これは言葉の通じない相手と向き合う場面を想像してみればいい。
相手が何で怒っているのかわからない。
何が嬉しいのか悲しいのか、何が欲しいのかわからない。
相手の主張も感情も何も分からないのでは対処のしようがない。
今の日本で起こっている若者の引きこもりやコミュニケーション下手の
問題の根っこにあるのは案外そういうことなのではないか。
親は何はともあれそこそこ勉強さえしていればいいと
小さい時から子どもの心に関することには無関心。
兄弟の数も少ないし大勢の友人と遊ぶ機会も減って
わいわいと自己主張をしたり
幼いながらに上下関係があったりという
心を表現する言葉を使うことがない。
まして遊び相手がゲームなどモニターの画面では
しゃべる必要もなくしゃべっても返事は返ってこない。
これでは相手の気持ちを考える上でも自分の気持ちを表現するのにも
必要な言葉を使いこなす能力が身につくはずもない。
何も若者に限ったことではない。
依存症になったうちのダンナにしても
自分の気持ちを言葉にして表現するのがてんから苦手だし
家族の気持ちを思いやることもできなかった。
さらに悪いことに世の中にはゲームやパチンコ・スロットなど
そういう傾向を助長するようなものがあふれ返っている。
実は日本人の精神をとことん破壊しようという闇のプロジェクトみたいなものが
粛々と進行しているんじゃないかとまで考えてしまうのだ。

相手が何を感じどう考えているかを
自分の脳で言葉を使ってシミュレーションする能力や習慣は
成長していきなりできるようになるものではない。
小さい時からの親子、兄弟、友人との色々な経験と
それを補完する読んだり書いたりの繰り返しが一緒になって
徐々にコミュニケーションのレベルが上がっていく
そういうものではないかと思う。
かつてダンナに「子どもぼろぼろ産んで白い飯さえ食べさせて
おけばいいというもんじゃない」と言ったことがある。
ギャンブルにはまって家庭を破綻させたことについて
ひとりダンナだけの責任ではなく親も悪いと
今でも私は心の底で思っている。
学問があるとかないとかそういう問題でもない。
優しいだけでもダメ、厳しいだけでもダメ
というよりそういう表面的なことではなく生き様の問題なのだと思う。

「人間として何が一番大切か」
それをどういう形でどういう言葉で
こどもに伝えることができるのかできないのか
それはまた私自身が自分に突きつけられている問いでもある。
この前から書いているが、宗教に依存しているような人間は
その部分を全て他人が作った借り物で間に合わせている。
確かに簡単で楽でいいだろうが
本当にそれでいいのか、正しいのかといえば私は絶対にそうは思えない。
自分の心で感じること、自分の言葉で話すこと。
自分が今生きてあることの意味はそこにしかないと考えるからである。
