癌と生きる 依存症と生きる

命がある限り希望を持つということ


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「悪人」を観て

2012-05-22 13:09:38 | 依存症
週末に少し時間ができたので
ずっと観たかった映画「悪人」のDVDを観た。

福岡と佐賀の県境三瀬峠で起きた若い女性保険外交員の殺人事件。
出会い系サイトで知り合ったその女性をささいなきっかけで殺して
しまった長崎に住む土木作業員の清水祐一(妻夫木聡)。母親に捨てられ
祖父母に育てられた佑一は、祖父母の世話と仕事だけの毎日に鬱屈した思
いを抱いていた。殺人を犯して絶望する佑一の携帯に、これも出会い系
サイトでメールをやり取りした佐賀の女性光代(深津絵里)から突然
メールが送られてくる。ストーリーは、このどうしようもなく孤独な
男女の愛情と、破滅的な逃避行を主軸に展開するが、同時に殺人事件に
巻き込まれた加害者と被害者の身近な人々の深い悲しみを浮き彫りにする。

特に娘を殺された父親(柄本明)のセリフ。

「あんた、大切な人はおるね?その人の幸せな様子を思う
だけで、自分までうれしくなってくるような人たい。
おらん人間が多すぎるよ。今の世の中大切な人もおらん
人間が多すぎったい。大切な人がおらん人間は、なんでも
できると思い込む。自分には失うもんがなかっち、それで
自分が強うなった気になっとる」

これは父親が、女性が殺されるきっかけを作った裕福な大学生に
復讐しようとする直前に言ったことばなのだが、この父親は
結局その男にスパナを振り下ろすことをせずに立ち去る。
女性の両親は娘を愛し大事に育ててきたが
女性は「殺されても仕方がないような」と言われるような
嫌な人間になっている。

原作の小説は、福岡と長崎と佐賀の三県を舞台に展開する。
登場人物たちの心理には地方都市のどうしようもない閉塞感
豊かなもの、洗練されたものへの憧れや劣等感が
複雑に影を落としている。

「かけがえのない」ものを持てない人間
誰からも「かけがえがない」と思われたことのない人間
あるいはそういう相手がたとえ身近にいても
そのことに気づけない人間
そのすべてが悲しく、またそういう人間たちが
誰かを悲劇に巻き込んでしまうのはやりきれない。

映画の感想からは大きく逸脱するが
残念ながらつらつらとこんなことを書いてみても
ギャンブル依存症の人がこんなものを読んでくれるとは
とても思えないし、たとえ読んでくれたとしても
それでギャンブルを止めてくれるとも思えない。

もとより天涯孤独で、たとえ借金漬けになったあげく
腎臓や肝臓を抜かれて東南アジアの川に浮かんでいようが
どうしようが、それでも自分はギャンブルだけが
生きがいなんだという人は別にそれでもいいと思う。

しかし家族があり、家庭があって
自分以外の誰かの人生に対して
少しでも責任のある人は
できることならギャンブルにはかかわらないで欲しい。
依存症はたった一度の大勝ちした経験でもかかる
一生治ることのない脳の機能障害で
覚醒剤などの薬物の依存症とまったく同じものなのだ。

だから恋人でも、奥さんでも、ご主人でも、子どもたちでも
あるいは両親でも、兄弟でも
とにかく誰か一人でも自分の回りに、傷つけたくない
悲しい思いをさせたくないという人がいるならば
どうか安易な気持ちでギャンブルに手を出すのは止めてほしい。
それで得るものは何も無く
失うものはあまりにも大きいのだから。







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悲しみを知る心

2012-05-15 09:23:22 | 社会・生活
朝起きるとお仏壇にお線香を上げて
「今日も一日どうか悪いことが起こりませんように」と手を合わせる。
震災が起きてからは特に全ての人たちが今日一日を
無事に暮らすことができますようにという思いが強くなった。
人間の叡智を超えるものに対しては祈るしかなすすべはない。

お仏壇の横にルナのお骨を祀った祭壇があって
お花やお水、猫缶や好物のいりこ、かつおぶしなどを供えてやっている。
「ルナ、おはよう」と声をかけるのが毎朝の日課だ。
側にいるけど姿が変わったことに少しづつ慣れてはきている。

それでも話しかけても鳴き声が返ってこないこと
寝るときに腕の上に彼女の体温や重さがないこと
床の上にトイレの砂が落ちてないこと
ふわふわ落ちていた毛がなくなったこと
そんなことのひとつひとつが無性に寂しく悲しい。
動物でも家族として長年ともに暮らしてきて
その存在を失った時の喪失感は何かもう言葉で表現するのは難しい。

先日京都の亀岡市で無免許で居眠り運転した少年の車にはねられて
児童ら10人が死傷した事故で危険運転致死傷罪が適用されず
過失致死になったことについての批判は多い。
以前に福岡でも海の中道で飲酒して車を追突させ
幼いこどもたち3人が犠牲になった事件では
加害者が成人だったこともあり最終的に判決がひるがえった。

悪いことをしてもお金さえあれば何とでもなる
法に問われなければO.Kというのは今の社会全体の風潮だ。
しらをきり、言い逃れをし、ごまかしてしまえば
何とでもなるという光景を誰もが嫌というほど見ている。
それが人間の心に大きな影響を与えていることは間違いない。

けれど厳罰主義で臨めばよくなるのかというと
私にはそうは思えない。
私は善悪を知るというのは理屈であれこれ説明するものではなく
悲しみを知る心を持てるかどうかなのだと思う。
いわれなく自分の肉親を奪われた悲しみ。
それはもう筆舌に尽しがたいものだ。
つい数時間前まで目の前にいたわが子の可愛い姿、声、仕草
その全てが失われて永久に取り戻すことができないことが
どれほどの苦しみをともなうものか。
おそらくたとえ加害者が死刑になったとしても
その苦しさや悲しさは癒されることはないだろう。
前にも書いたが「人を殺す」というのは
もう何をどうしても取り返すことができない
もとに戻すことはできないのだから
たとえ自分の命を持ってしても償うことはできないのだ。

そういう人の心がまったく分からないというのは
本人が誰からもそういう人間らしい感情を受け取った経験がなく
自分自身がそういう感情を抱いた経験もないからだ。
これはお金があるとかないとかいう問題ではない。
「人が生きようが死のうがどうでもいいや」と考えるような人間は
それまでの人生で誰からも「かけがえのない存在」として
大切にされたという実感を持てなかったのだと思う。
だから後付的に法改正をして罪を重くしても
今どんどん増えているこういう人間や事件や事故を
未然に防ぐことはできないと思う。

ダンナは農家の次男でお兄さんと妹がいる。
かつて私はダンナに「子どもをどんどん産んで
白い米の飯を食べさせておけばそれでいいというものではない」
と言ったことがあった。
パチンコの機械にどんどん捨てるようなお金があるなら
どうして子どもが喜ぶおみやげの一つも
買ってかえってやろうという気持ちにならないのか。
我が子の笑顔や、日々育っていく姿が
なぜ生きていく喜びにならないのか。
なぜそんなことよりも自分の遊びや楽しみが最優先になるのか。

今日も母親が6時間パチンコに行っていて
一歳半の赤ん坊が布団がかぶさって死亡したというニュースをみかけた。
私にはこういう母親の気持ちは逆立ちしても分からない。
そしてこういう人間におそらく何を言っても何をしても
その本質的なところを変えることができるような気がしない。
そしてそういう劣悪な環境で運良く死んだりせずに育った人間が
成長して今度は他人に害悪をもたらし、たくさんの悲しみを生み出す
それはまさに負の連鎖以外の何物でもない。
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誰かの幸せのために生きること

2012-05-02 09:41:26 | ねこの話
ルナが長生きをしたことで一番得をしたのは
実はダンナだったかもしれないと、ふと思った。

ギャンブル、借金、女遊び。
そんな人間のやる愚かで醜悪な世界は
猫にはまったく関係がない。

あったかな陽だまりで目を細めてひなたぼっこをしたり
昼寝をしたり、おいしいものをお腹一杯食べて
一日平和に暮らせさえすれば幸せオーラに満ちている。
私の腕枕ですやすや寝ている顔を見ると
さながら「幸せ」が毛皮を着ているようなものだ。

もし家の中が成長した子どもたちだけだったら
私はもっと逆上して事あるごとに
ダンナに対して怒りや悲しみをぶちまけていたかもしれない。
子どもたちはもう何が悪いのか、誰が間違っているかを
判断できるようになっているから
たとえ私が怒り狂って泣き叫んだとしても
状況を理解して、それで精神的に大きなダメージを
受けることはなかったはずだ。

しかしルナは私が普段と違う行動をすれば
不安とか恐怖を感じてパニックになりそうだった。
年を取った猫にそんな思いをさせたくない。
それがずっと私の爆発に歯止めをかけ続けてきた。

私はルナが幸せそうであればそれでいいと思い
その幸せそうな顔を見て自分も幸せを感じることができた。
本来は人間同士もそういう関係がベストなんだと
頭では分かっていても夫婦にしろ親子にしろ
なかなかそういう具合にはいかない。
絶え間のない葛藤と混乱。
もうカオス、カオス、カオスなのだ。

それでもルナを失って今しみじみ思うのは
誰かの幸せのために生きる人生でもいいんじゃないかということ。
例え給料が安くたって、お客さんが笑顔で「ありがとう」と
言ってくれる瞬間があればそれでいい。

今日自殺意識調査で、死にたいと思った人の割合が
20代で一番高いという悲しい結果が報道されていた。
自分が幸せになりたいと思うと
将来に希望が持てなくて絶望してしまうのだろう。
でも私は思うのだ。たとえ自分が悲惨な人生を送っていたって
誰か一人くらいは幸せにすることができるのではないかと。

自分や自分の一族が裕福に安泰に暮らせさえすればそれでいいという
究極のエゴイストたちの行為が
格差や、たくさんの人たちの不幸を生み
怨嗟に満ちた不安定な世の中になっているが
そんな意識をくるりと裏返して
自分がどれほど不幸でも自分の回りの誰かが幸せであるなら
それもいいと思えるなら
一億三千万の人が皆そう思えるなら
一人一円の募金が一億三千万円になるというのと同じで
あるいは世の中の空気を少し変えることもできるのではないかと
一方ではギャンブル依存症を生み出した
人間たちに悪態や怨嗟の言葉を吐き散らかしつつも
柄にもなくそんなことを思ったりするのである。

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