先日購入した高村薫さんの「土の記」を読了した。
実は、この作品の前の前に出版された「四人組がいた。」を読んだ時に
「ついに高村さんは、今の社会や世相に匙を投げたんじゃないか。
もう新しい作品は、書かないんじゃないか」と、心の底から心配していた。
かつて「神の火」で、チェルノブイリの事故を踏まえて
逆説的な形で、原発の是非を問うたり
「レディ・ジョーカー」から
「晴子情歌」に始まる「福澤三部作」や「冷血」で
現代の政治、企業活動、恋愛、宗教、家族、犯罪と
書き手も読み手も、脳のシナプスがショートするくらい
幾千幾万の言葉を積み上げ、組み上げて
世の中に「人間とは何か」を問うてこられた高村薫さんの忍耐も
「太陽を曳く馬」のあたりで
そろそろつき始めているのではないかという予感があったからだ。
そして東日本大震災のあとに書かれたのが
初のユーモア小説と銘うった「四人組がいた。」と「空海」だった。
初期の作品にはしばしばキリスト教に関わる表現があったのが
「新リア王」以降は、仏教に対する親和性が感じられるようになって
その当たりが高村さんの到達点になるのだろうかと思っていたが
どうもそうではないようだ。
「土の記」は、奈良の大宇陀という山奥の集落に暮らす、72才の伊佐夫の物語。
タイトルも地味だけれども、舞台も登場人物も
そこで起こる事件も地味なことこの上ない。
けれども、こういう小説を世に出してくれる出版社がまだあることが嬉しい。
伊佐夫は、もとはシャープの社員だったが
大宇陀の旧家の婿養子になり
16年前に交通事故で植物状態になった妻を介護しながら
今は妻が担ってきた農家の仕事を継いで、日々を送っている。
野生の茶の木を育てて茶畑を作り
「伊佐夫さんのコメ作りは理科の実験」と言われるような独自のやり方で稲を作り
親戚や近所と付き合う日常の中で
多少認知症も出始めているのか、過去と現在の境界があいまいになっている。
「昭代(妻)のオムツを替えなければ」と思う端から
「そうか、昭代は年の初めに死んだのだ」という具合に。
精密に、詳細に描かれる大宇陀の自然、農業の手順
風や雨の音、蛙の声、珍しい植物の姿や名前。
そして東日本大震災が起き、その振動は遠く離れた奈良の地にも伝わる。
「どれだけの数に上るのか分からない死者たちが
一夜のうちに生き残った者の世界を一気に組み換え
一本の草もただの草ではなく、土も土ではなく、空も空ではない
三・五次元の位相が現れたのかもしれない」
本当にその通りだと思った。
あの時、私たちが向き合ったのは、自分たちがほとんど経験しなかった
むき出しの生と死の姿だった。
植物も動物も人も、命ある者は皆生きていて
けれどその生の裏側に、死は逃れられない真理として張り付いている。
生ある者の死を、自然の摂理として
それほど恐怖を感じずに受け入れられるようになるのは
60年、70年生きてきたからこそで
多くの、命ある者にとって、死はどこまでも残酷で理不尽なものだ。
それでも、老いるということは
そういう生と死の境界が、次第にあいまいになっていくということでもある。
伊佐夫の回りでも、妻の昭代が死に、実の兄が死に
妻をダンプではねた男が死に、昭代の妹の夫が死に、と何人もの人が死ぬ。
その中で、伊佐夫は次第に、生者と死者、さらには遠い昔の先祖の霊に至るまでが
混在する、現実と非現実の入り混じった世界に生きるようになっていく。
どんな山奥の暮らしであれ
それなりに、浮いたり沈んだりのある人間の日常ではあるのだが
「土の記」は、そうした世俗の諸々をきっちりと描きつつも
どこか夢幻的でとても美しい。
実はこの小説は、会話文に一つもかぎかっこが用いられていないのだが
そのことが、まるで古典文学を読んでいるような
不思議な心持ちにさせてくれるのだ。
自然と人間、過去と現在、そして生者と死者の全てを包み込んで
静寂の中に存在する、一種の宗教的とも言える
広範な奥行きを感じさせる、とても心地よい世界。
しかしながら、こういう生と死と、あらゆるものが混然となった世界を
語ることができるのは、やはりそろそろお迎えが来そうな年齢になればこそで
それを読んで心から感動できるというのもまた
自分がボーダーラインに近づいているからこそなのだろうと思う。
この本を読んだあとに、珍しくしみじみとダンナに
「私ね。あなたと二人で、毎日こんなに穏やかに暮らしていられるのは
やっぱりがんになったからだと思う。もしもがんになってなかったら
あれだけ散々いろんなことがあって、子供たちもルナもいなくなって
ここまで穏やかに暮らすのは難しかったかもね」と言ってみました。
死と向き合うことで、見えてくるものもあるというのは
私の今の実感でもあるからです。
その真意がどこまでダンナに伝わったかはわかりません(笑)
でも、生きているうちに、またこういう本に出会えて本当によかったと思います。
実は、この作品の前の前に出版された「四人組がいた。」を読んだ時に
「ついに高村さんは、今の社会や世相に匙を投げたんじゃないか。
もう新しい作品は、書かないんじゃないか」と、心の底から心配していた。
かつて「神の火」で、チェルノブイリの事故を踏まえて
逆説的な形で、原発の是非を問うたり
「レディ・ジョーカー」から
「晴子情歌」に始まる「福澤三部作」や「冷血」で
現代の政治、企業活動、恋愛、宗教、家族、犯罪と
書き手も読み手も、脳のシナプスがショートするくらい
幾千幾万の言葉を積み上げ、組み上げて
世の中に「人間とは何か」を問うてこられた高村薫さんの忍耐も
「太陽を曳く馬」のあたりで
そろそろつき始めているのではないかという予感があったからだ。
そして東日本大震災のあとに書かれたのが
初のユーモア小説と銘うった「四人組がいた。」と「空海」だった。
初期の作品にはしばしばキリスト教に関わる表現があったのが
「新リア王」以降は、仏教に対する親和性が感じられるようになって
その当たりが高村さんの到達点になるのだろうかと思っていたが
どうもそうではないようだ。
「土の記」は、奈良の大宇陀という山奥の集落に暮らす、72才の伊佐夫の物語。
タイトルも地味だけれども、舞台も登場人物も
そこで起こる事件も地味なことこの上ない。
けれども、こういう小説を世に出してくれる出版社がまだあることが嬉しい。
伊佐夫は、もとはシャープの社員だったが
大宇陀の旧家の婿養子になり
16年前に交通事故で植物状態になった妻を介護しながら
今は妻が担ってきた農家の仕事を継いで、日々を送っている。
野生の茶の木を育てて茶畑を作り
「伊佐夫さんのコメ作りは理科の実験」と言われるような独自のやり方で稲を作り
親戚や近所と付き合う日常の中で
多少認知症も出始めているのか、過去と現在の境界があいまいになっている。
「昭代(妻)のオムツを替えなければ」と思う端から
「そうか、昭代は年の初めに死んだのだ」という具合に。
精密に、詳細に描かれる大宇陀の自然、農業の手順
風や雨の音、蛙の声、珍しい植物の姿や名前。
そして東日本大震災が起き、その振動は遠く離れた奈良の地にも伝わる。
「どれだけの数に上るのか分からない死者たちが
一夜のうちに生き残った者の世界を一気に組み換え
一本の草もただの草ではなく、土も土ではなく、空も空ではない
三・五次元の位相が現れたのかもしれない」
本当にその通りだと思った。
あの時、私たちが向き合ったのは、自分たちがほとんど経験しなかった
むき出しの生と死の姿だった。
植物も動物も人も、命ある者は皆生きていて
けれどその生の裏側に、死は逃れられない真理として張り付いている。
生ある者の死を、自然の摂理として
それほど恐怖を感じずに受け入れられるようになるのは
60年、70年生きてきたからこそで
多くの、命ある者にとって、死はどこまでも残酷で理不尽なものだ。
それでも、老いるということは
そういう生と死の境界が、次第にあいまいになっていくということでもある。
伊佐夫の回りでも、妻の昭代が死に、実の兄が死に
妻をダンプではねた男が死に、昭代の妹の夫が死に、と何人もの人が死ぬ。
その中で、伊佐夫は次第に、生者と死者、さらには遠い昔の先祖の霊に至るまでが
混在する、現実と非現実の入り混じった世界に生きるようになっていく。
どんな山奥の暮らしであれ
それなりに、浮いたり沈んだりのある人間の日常ではあるのだが
「土の記」は、そうした世俗の諸々をきっちりと描きつつも
どこか夢幻的でとても美しい。
実はこの小説は、会話文に一つもかぎかっこが用いられていないのだが
そのことが、まるで古典文学を読んでいるような
不思議な心持ちにさせてくれるのだ。
自然と人間、過去と現在、そして生者と死者の全てを包み込んで
静寂の中に存在する、一種の宗教的とも言える
広範な奥行きを感じさせる、とても心地よい世界。
しかしながら、こういう生と死と、あらゆるものが混然となった世界を
語ることができるのは、やはりそろそろお迎えが来そうな年齢になればこそで
それを読んで心から感動できるというのもまた
自分がボーダーラインに近づいているからこそなのだろうと思う。
この本を読んだあとに、珍しくしみじみとダンナに
「私ね。あなたと二人で、毎日こんなに穏やかに暮らしていられるのは
やっぱりがんになったからだと思う。もしもがんになってなかったら
あれだけ散々いろんなことがあって、子供たちもルナもいなくなって
ここまで穏やかに暮らすのは難しかったかもね」と言ってみました。
死と向き合うことで、見えてくるものもあるというのは
私の今の実感でもあるからです。
その真意がどこまでダンナに伝わったかはわかりません(笑)
でも、生きているうちに、またこういう本に出会えて本当によかったと思います。
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