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癌と生きる 依存症と生きる

命がある限り希望を持つということ

人間の抱え持つ寂しさ

2012-06-27 15:18:20 | 社会・生活
少し前に脱法ハーブとの関連で、薬物依存症の人たちの
回復施設のことを特集していた。

なぜ薬物に手を出したのかの問いに「ストレスとか、一瞬の快楽が欲しかった」
という答が。前のブログで書いたサクラサイトの被害にあった主婦も「寂しか
った」と答えていた。

農業とか漁業、あるいは何か商売をしているのと違って、サラリーマン
の家庭では、例えば会社で働く父親とパートに出る母親、学校に行っている
こどもは、一日のほとんどの時間を、別々の人間関係や空間の中で過ごして
いる。子どもたちの楽しみも、休日に父親とするキャッチボールではなく、
ゲームであったり、携帯であったりと大きく変貌した社会の中で、よほど
丁寧に適切なコミュニケーションが取れる家庭ででもない限り、家族が
同じ価値観や感覚を共有することはとても難しくなった。

ほとんどの家が、TVや冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、車やパソコンと
いった、一定以上の水準の生活をするのに必要な家具も家電もそろって
恵まれた生活をしているのに、多くの人が満たされない思いを抱えている。
これは実はとても異常なことなのではないかと思う。
その理由の一つは情報。上には上があるのは人の世の習いで、それを始終
TVなどを媒体にして見せつけられると、「ある」ことの満足よりも
「無い」ことへの不満のほうが増大する。

仕事があって、家があって、家族が健康で、毎日が平穏に過ぎていく
なら、それこそ幸せだと思い定めれば生きることはそんなに大変ではない。
けれどそんな人生をつまらない、意味がないと感じ、きつい思いをして
働くより、少しでも楽をして暮らしたいとか、普段きつい思いをして
働いているんだから、それ相応の楽しみ、見返りがないとといった
何か本末転倒の考え方が蔓延しているように思えてならない。
そして世の中には、そんな人間の空虚につけ込む誘惑や罠が
いたるところに口を開けている。薬物やギャンブルの依存症のように
一度取り込まれてしまったら、もう二度と元の自分には戻れない
ような恐ろしい形で。

小説「悪人」の中で、光代が出会い系サイトで知り合った佑一に、初めて
会った時に言う。

「私、本気でメール送ったとよ。他の人はただの暇潰しで、あんなこと
するとかもしれんけど。…私、本気で誰かと出会いたかったと。ダサい
やろ?そんなの、寂しすぎるやろ?…バカにしていいよ。でも、笑わんで」

心から愛せる人、好きだと思える人に出会いたい。その光代の気持ちは
とても真っ当で、人間として当たり前のことであるはずなのに、それを
「ダサいやろ」と自嘲しなければならない世の中のおかしさ。
普通のもの、真面目なもの、真剣なもの。それらを全て「ダサい、暗い
ウザい」と否定し退けたあとに残された人間の精神の空虚と荒廃。

そして光代は、些細なことで人を殺してしまった佑一の中に本当の愛を
見出し、彼が自首するというのを止めて、二人して出口のない逃避行に
踏み出していくことになる。

「悪人」はこの佑一と光代という、現代のどこか狂った空気に翻弄される
男女を軸に、彼らを取り巻く家族や友人、そして殺された女性とその両親の
それぞれが抱え持つ何かどうしようもない「寂しさ」を描いた作品でも
あるように私には思えた。


雨後の竹の子状態

2012-06-13 09:46:54 | 依存症
先週「コンプガチャ」という耳慣れない言葉を聞いた。
「射幸心をあおる」とか「規制」という表現もあったので
改めて調べてみた。

「コンプガチャ」「ガチャ」というのはネットでのカードゲームで
どうやらPCや携帯でアクセスしてカードを入手するというもの。
カードをめくるたびに課金され、レアなカードを入手するために
未成年者までが多額な利用料を請求され、どうやら国が規制に
乗り出したらしい。

少し前には「サクラサイト商法」というものがあって、例えば
占いのサイトから入ってしばらくすると「某有名芸能人の
相談に乗ってあげて」などと勧誘され、その芸能人とメールを
しているつもりで頻繁にメールをやり取りして利用料を請求される
もの、出会い系サイトで知り合った証券マンに「メール交換
してくれたらウン百万円あげる」と言われ有料サイトに導入されて
やはり多額の利用料を請求されたもの。

しかも前から気にはなっていたがやはりネットを舞台にした
新たな依存症が広がり始めているように感じる。
そもそもなぜこれほどに携帯一辺倒なのかという疑問は当初から
あった。私はアナログな人間なので、ビジネスマンならともかく
いまや幼稚園児までもが携帯を持つようない現今の風潮にはどうしても
なじめない。
安全性の面でこどもに携帯が必要なら必要最低限の機能だけを搭載した
子供用の携帯を作ればよいのではないか。携帯一つで音楽も聴ける
映画も観れる、ゲームもできる。次から次から色んな機能を搭載して
「人間は携帯一つあれば生きていける」みたいになるのは何かが
おかしい。第一あんな小さな画面で観るのを映画だなんて言わない。
しかも若い人が案外PCが使えない。今の時代どこで働いても最低限の
PCの操作ができるのは常識だが、それさえもままならない。

その一方でネットの防犯対策はおざなりのまま、まるで雨後の竹の子
のように新種のネット犯罪が生まれてくる。それに取り込まれて
新たな依存症も発生してくる。被害にあう年齢もどんどん低下してきた。
新種のネット犯罪はもはや私の想像する範囲をはるかに超えている。
「情報や知識を持っている人間が持たない人間から搾取する」
搾取だけですめばいいが、新しい依存症の病態やら全体像が
クローズアップされてくるとしても、
ギャンブル依存症の場合から考えても、五年後とか十年後で
しかもそれが脳の病気と分かっても何の規制もかからなければ
病気の解明もいっこうに進まない。
福島の事故は終息などしてはいないのに
国民の苦しみなどどこ吹く風で再稼動に舵を切る。
政治は自分たちの利益になる人間以外は守らない。
この国はそういう国で今はそういう時代なのだということを
肝に銘じて置かなければならないのだと思う。

幻想の生み出す悲劇

2012-06-03 16:50:14 | 社会・生活
前回映画「悪人」の感想を書いたが
実は書きながら自分でも言葉足らずな気がしていた。

深津絵理さんがモントリオール映画祭で最優秀女優賞を受賞し話題になったが
私にとって一番インパクトがあったのはやはり被害者の父親役の柄本明さんで
最初の感想もそこがメインになってしまった。

そして破滅的な逃避行に出る主役の二人
特に妻夫木くんが演じた清水佑一という人物がもう一つ理解しにくかったので
結局原作を読んでみることにした。

映画化にあたっては原作者の吉田修一さんが脚本に関わっておられるので
小説の世界観を表現するために必要な場面は
きっちりと押さえられていたのだろうと思う。
それでも原作を読んで、改めてこれだけの長編を
2時間の映画にするのにはやはり少々無理があると感じた。

「悪人」は一つの殺人事件をめぐって展開される群像劇とも言える。
幼い時に身持ちの悪い母親に置き去りにされて
祖父母に引き取られ、成長して祖父母の面倒を見ながら
解体作業の現場で働き、車だけが趣味の寡黙な若者佑一。

佐賀市郊外の紳士服量販店で働く29歳の馬込光代は
どちらかといえば内向的なタイプの女性で
原作ではタイプの異なる双子の妹と同居している。
彼女が暮らしている土地は
「三日も続けて外出すれば、必ず昨日会った誰かと再会する。
実際、録画された映像を、繰り返し流しているような町」なのであり
彼女自身自らの人生が、小学校も中学も高校も、職場も一本の国道沿いで
「考えてみれば、私って、この国道から全然離れんかったとねぇ。
この国道を行ったり来たりしとっただけやったとよねぇ」と述懐する。

佑一に殺された佳乃は、久留米で理髪店を経営する親元を離れて
福岡で一人暮らしをするOLだが
金持ちの大学生に憧れる一方で
出会い系サイトで車が趣味の佑一と知り合う。
しかし彼女はただドライブがしたかったわけではなく
誰もが羨むような男の車で、颯爽と博多の街を走り抜けたかったのであり
彼女の理想の相手は佑一のような男ではなかったのだ。

他にも佳乃が憧れた別府の老舗旅館の息子で
三瀬峠に佳乃を置き去りにして事件のきっかけを作りながら
人の死をさえも茶化して笑い話にする大学生も
怪しげなキャッチセールスに引っかかって
高額な漢方薬を買わされる佑一の祖母も
登場するほとんど全ての人間が
自分の生きている現実に何かどうしようもない
不満や空虚さを抱えている。

豊かさと貧困、都会と地方といった単純な対比ではない。
「自分は今ここで生きている現実とは違った
何か素晴らしいものに出会えるのではないか」
そういう幻想をテレビやネットといったツールが増幅する。
高級なマンションや、光溢れる庭付きの一戸建てに住み
流行のファッションや車、贅沢な食事や海外旅行
生活力のある夫と若くて美しい妻
素直で頭のよい子どもたち
そういうステレオタイプな
幸せのイリュージョンを見せられ続けると
自分の現実を受け入れることができなくなり
それが様々な悲劇を生み出しているのではないだろうか。

私の話は最後はいつも依存症の問題になるが
ギャンブル依存症に陥りやすい人の特徴に
プライドが高いというのがある。
自己評価は高いがそれが思うほど周囲から評価されないストレスが
ギャンブルに向かい、ギャンブルで勝つことで
勝利の快感を得るという心理らしい。
等身大の自分と冷静に客観的に向き合うのは誰にとっても難しいことだ。
特に幼い頃から色々な意味で競争社会で生きてきた人間にとって
純粋に自分とだけ向き合うのはおそらく禅の修行のようなものだろう。

けれどそういう視点を持てると
少しだが生きていくのが楽になるような気がする。
いたずらに他人と競うことを止めて
自分で自分の物差しを決め、それに向けて日々を生きる
そういう生き方もできなくはないと思う。

まあ、それは私のようにある意味
どん底を体験した人間ならではの考え方さと
言われてしまえばそれまでのことだけど。