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癌と生きる 依存症と生きる

命がある限り希望を持つということ

虐待とギャンブル依存症の深刻な関係

2012-07-31 15:26:45 | 依存症
先日NHKのニュースで児童虐待の増加を取り上げていた。
その中で虐待を防ぐ取り組みとして、問題を抱える人には、妊娠中から育児
の環境などについて聞き取りをして、例えば経済的に困っている(病院を
受診したり、出産に必要なお金がない。育児に必要な経済的な基盤がない)
人については、出産、育児ができる環境を整えるための公的な支援につな
げていく取り組みがされていることなどが紹介されてきた。

その中で目をひいたのは、聞き取り調査の時に「配偶者に、アルコール、
ギャンブル、薬物などの依存があるか」という項目があったことだ。
なぜかキャスターさんは「アルコール、薬物などの依存」とわざわざ
「ギャンブル」を飛ばしていたが。NHKなのになぜ?

ダンナがギャンブル依存症の場合、当然子育ては女性一人にかかってくる。
うちの場合も、休みになると申し訳程度家族サービスをして、家に戻ると
「ちょっと遊びに行ってくる」というのがお決まりのパターンだった。
ただ私は最初の子どもを産んですぐに、ダンナが会社の同僚たちと泊り
がけで遊びに行くという話になったときに「ああ、男というものは
そうなのだ」と計り知れない衝撃を受けた。もし母親が同じことをすれば
生まれたばかりの赤ん坊は死んでしまうだろう。子どもを産むというのは
そういうことなのに、男はそういう風には思わないのだ。それは目には
見えない精子一つでしか子どもとつながっていない、父親という存在の
どうしようもない軽さ、リアリティのなさなのか。その衝撃をくぐり抜けた
後に私は決心した。何があっても自分のこどもは自分が守ると。

だから休みのたびにダンナが遊びにいこうがどうしようが、それで夫婦
喧嘩をしたことさえなかったのは、すでに私が父親というものを完全に
家族から排除していた結果と言えなくもない。子どもの前で喧嘩をして
こどもたちに嫌な悲しい思いをさせたくない。ただそれだけだった。
そして、子どもたちが思春期に差しかかった頃には、私も子どもたち
もダンナが家にいないほうが家の中が明るく楽しく、そのいたたまれ
なさがさらにダンナの依存症を悪化させる結果にもなったのだと思う。
しかし人間は神でも仏でもない。そんなに誰に対しても優しく、心を
つくすことなどできるわけがない。だから後悔なんかしていないし、
そのことについてダンナに申し訳ないことをしたとは思っていない。
自分の行いが自分に返ってくる。即ち因果応報というじゃないか。

しかし人は十人十色。人によっては「夫は遊びにばかり行って
なぜ自分だけが子育てをしなければならないの」という不満が
子どもに向いていけば容易に虐待につながる。特にギャンブル
の場合は、お金の問題が絡んでくることも多いからさらに大変
さが倍増する。しかし子どもには何の罪もない。これだけは
はっきり言える。悪いのはどこまでもギャンブルという、まさに
出口のない泥沼にはまり込んだダンナなのであって、怒りや
不満の矛先を幼いこどもに向けるのだけはやめてほしい。

しかもそれで虐待をした場合、なぜか母親ばかりが責められる。
これは納得がいかない。虐待の原因を作った人間、問題の元凶
こそがむしろ厳しく責められるべきなのに、法律はそういう風に
なってはいない。まあ、調査項目の中に、ギャンブルが加わった
だけでもわずかばかり進展があったというべきか。

昔「皇帝ペンギン」というドキュメンタリー映画の中で
ペンギンのオスは、生まれてくる我が子のために餌を取りに行く
メスに替わって卵を抱き、吹きすさぶブリザードの中、自らは
120日間にも及ぶ絶食をして、ひたすら卵を温め続ける。
その姿を見ていて「こどものことより、自分が遊ぶほうが大事とは。
マジで人間はペンギン以下どころか最下等動物やな」
とも思ったことがある。

一握りの裕福な人たちは別として、この不況の影響はじわじわと
人々の心を蝕んでいく。満たされない人間の心は荒廃して
ストレスが弱い者に向かう。いじめも虐待も、根底にあるのは
そうした目には見えない不安や不満の表れなのだと思う。
しかし人間のそういう心理というのは、えてして
循環していくものだ。そういう行為をやる人間というのは
おそらく自らもなんらかの形でそうした悪意にさらされたことが
あるはずだし、被害者であった経験があるはずなのだ。
その本質的なところが解明されなければ何も良くなりはしないと思うのだが。

生きていく限りは

2012-07-11 12:45:46 | 社会・生活
今年の初めに、もうこのブログでは政治だとか原発問題とか、そういう大きな問題に言及するのは控えようと思った。こういう問題は、メディアでもネットでも玉石混交に様々な見解が飛び交い、何が真実なのかを見極めるのがもの凄く難しい。確かな根拠のない推測で何かを書けば、それはただのデマになってしまう。私のような、普通のおばちゃんが考えの及ぶキャパをはるかに越えている、そう思った。

もともとブログで政治のことに言及するようになったのは、メディアが大手のスポンサーであるパチンコ業界に配慮して、すでに患者数が400万人とも言われる(女性だけで75万人に達することは先般報道していた)「ギャンブル依存症」のことをほとんど何も報道できないという現実を知ったからだった。

今でも「ギャンブル依存に負けない強い心を作る」と言った表現を見かけるが、依存症は脳(脳内物質)などに変化が起きる脳の機能障害であって、脳にそういう変化が起きたことで、依存対象に対する衝動がコントロールできなくなる病気なので、根本的に理性や意思の力で治すことができるというような性質の病気ではない。つまり治らないのである。だから病気の本質をちゃんと理解して、自分のコントロールできないという状況を冷静に客観的に観察して、何とかその衝動が起きている時間をやり過ごす。つまり今日一日はギャンブルにいかないという毎日を、それこそ死ぬまで続けていく以外にはどんな回復の方法もない、覚醒剤などの薬物依存とまったく同じ恐ろしい病気なのだ。何もせずに放置していれば病態は進行して、同時進行で起こる借金の問題と絡んで、最悪の場合、簡単に犯罪行為に走るなどの結果になる。先日、京都で起こった看護士さん殺害の犯人もやはりギャンブル依存症だった。家族がギャンブル依存症になれば、家族は何年も借金に苦しめられ、もしも患者が犯罪を起せば、加害者の家族としてさらに言いようの無い苦しみを味わうことにもなるだろう。相当の数のギャンブル依存症が原因の犯罪が発生しているにもかかわらず、そのことに言及すること自体が完全にタブー視されている。これはもう異常といってもよいほどだ。

他にもアルコール依存症の人の40%程度はギャンブル依存も併発していることや、韓国ではこうした事実が「社会生活に与える影響が極めて大きい」として国が禁止をし、店舗も撤去されたことなど、メディアが取り上げていない事実は山のようにある。更に韓国で政治が介入したということを知って、日本の現状を調べて唖然とした。このブログでリンクしている「カジノとパチンコの論理学」によれば、日本では業界と警察の間に利権構造があり、政治家の人たちも隙あらば業界の規制緩和や、メーカーの株式一部上場など、禁止どころか擁護推進に尽力していることを知って、もう目の前が真っ暗になった。この国の政治家たちが、実は国民のことなど何一つ考えてはおらず、興味があるのは、ただ自分たちの懐に入ってくるお金のことだけ、それと議員とか大臣とかいう自分たちの社会的地位のことだけだと確信したのだった。

福島に友人がいて彼女のメールには「0・2マイクロシーベルトの瓦礫が汚染されている、東京の放射能の数値が上昇したと大騒ぎ。私たちは、それと同じ数値の場所で毎日暮らしている」と書いてあり「元に戻してほしい」という言葉で締めくくられていた。依存症の家族を抱える私もまったく同じ思いだ。できることなら、患者の脳を依存症でなかった元の状態に戻してほしい。ただそれだけなのだ。ただそれだけのことが、福島で暮らす人たちの生活も、ギャンブル依存症の患者や家族が抱える現実も不可能なのだ。この悲痛、この残酷。こういう過程を経ているから、私は政治家やメディアの言うことを信用することはできない。特に前の選挙の時に、メディアが世論操作とも思えるほどに自民党を叩いて民主党を持ち上げた結果が、今のこの状況であることを思えば、選挙になればまた同じことを繰り返すのではないかという危惧がある。

確かにどこに投票したって何も変わらない、どこも同じ、だれも信用できない、更に自分ひとりが何を考えてもどうにもならないという思いは私にだって常にある。けれども現実がどれほど過酷でも人は生きていかなければならないのと同じに、政治それ自体を放棄することはできないのだから、空気やムードに煽られず、少しでもましな選択は何なのかを、自分で調べたり決めたりする努力が必要なのだろうと思う。

余談ですが私の欝の症状の最大の原因は、やはりダンナのギャンブル依存症です。このブログを読まれていても分かるように、全てのことを希望的に考えることができないという状況は、やはりギャンブル依存症という病気が完治しないという事実が大きく影響しています。そして、このようにギャンブル依存症の家族を抱えることが、家族の精神的、身体的な病気を引き起こすことは専門家も指摘されているところです。