随分前に共依存の問題については棚上げすると書いた。
ギャンブル依存症について書かれた書物の多くは
必ず依存と表裏の関係にある共依存に言及している。
共依存とは何か?
共依存者とは、自己自身に対する過小評価のために
他者に認められることによってしか満足を得られず、
そのために他者の好意を得ようとして自己犠牲的な
献身を強迫的に行なう傾向のある人のことであり、
またその献身は結局のところ、他者の好意を(ひい
ては他者自身を)コントロールしようという動機に
結び付いているために、結果としてその行動が自己
中心的、策略的なものになり、しだいにその他者と
の関係性から離脱できなくなるのである。(加藤篤志)
さらにWikipediaで引いてみると
共依存関係は、機能不全家族などで育った境界性人
格障害者が陥りやすい。また自分自身は健全であると
思っていても、他者を操作する被共依存者との共依存
関係を改善させるのは容易ではない。よって専門家の
アドバイスを受けるのが望ましい。
私は母親不在の欠損家庭で
しかも一人っ子で育っているので
こういう風に書かれると
まさにどんぴしゃだと思う。
他人の評価を異常に気にするがゆえに
争うこともできないし批判されることも恐れる。
他者との距離をうまく調整することもできない。
だから全部自分が我慢することで
全てを破綻させずにやっていこうとする。
それが良くないと言われても
他のやりようが分からないからどうしようもないのだ。
このところダンナの車の車検が目前に迫って
ローンが組めないので
会社が使ってる整備工場に頼み込んで
3回に分割して払うことになりそうなのだが
個人再生の支払い中でもあり
今の家計からさらに3万円を捻出するとなると…
本音は車を手放して自転車ででも通勤してほしい。
もともと自分がギャンブルにはまって
家の一軒も建つほどの金を
パチンコの機械の中に捨てたことが
こうなったすべての原因なのだから
自分が多少通勤のきつさを我慢して
家計の負担を減らそうというような主体性はない。
これも依存症の特性で自分にかかってくることは
なるべく知らん顔をしてぬらりくらりと回避する。
いつも思うが依存者のこの能天気ぶりは見事だ。
だから依存者の末路が自殺というのは極めて少ないと思う。
依存者の脳はとっくに自分の生き方を客観視して
自省するという機能を失っているのだ。
それなのに依存者を批判することは
共依存者に負い目を感じさせることで
コントロールすることになるからよくないと言われる。
この問題に首を突っ込みたくないというのは
依存と共依存を知識として知ればしるほど
一体何をどうすればいいのかさっぱりわからない
負の無限ループに迷いこんでいくからだ。
要はどっちも精神病でどっちも治らないということなんだろうと
最後は投げ出してしまうのだ。
他人のためにという生き方が精神障害だと結論されたら
マザーテレサもスー・チーさんもみんな共依存なんかいと突っ込みたくなる。
しかし数日前「敬虔な信仰」と「狂信」は同じものという文を見て
なるほどと思ったのだがつまりはそういうことなのだろうと思う。
ギャンブル依存症について書かれた書物の多くは
必ず依存と表裏の関係にある共依存に言及している。

共依存とは何か?
共依存者とは、自己自身に対する過小評価のために
他者に認められることによってしか満足を得られず、
そのために他者の好意を得ようとして自己犠牲的な
献身を強迫的に行なう傾向のある人のことであり、
またその献身は結局のところ、他者の好意を(ひい
ては他者自身を)コントロールしようという動機に
結び付いているために、結果としてその行動が自己
中心的、策略的なものになり、しだいにその他者と
の関係性から離脱できなくなるのである。(加藤篤志)
さらにWikipediaで引いてみると
共依存関係は、機能不全家族などで育った境界性人
格障害者が陥りやすい。また自分自身は健全であると
思っていても、他者を操作する被共依存者との共依存
関係を改善させるのは容易ではない。よって専門家の
アドバイスを受けるのが望ましい。
私は母親不在の欠損家庭で
しかも一人っ子で育っているので
こういう風に書かれると
まさにどんぴしゃだと思う。
他人の評価を異常に気にするがゆえに
争うこともできないし批判されることも恐れる。
他者との距離をうまく調整することもできない。
だから全部自分が我慢することで
全てを破綻させずにやっていこうとする。
それが良くないと言われても
他のやりようが分からないからどうしようもないのだ。

このところダンナの車の車検が目前に迫って
ローンが組めないので
会社が使ってる整備工場に頼み込んで
3回に分割して払うことになりそうなのだが
個人再生の支払い中でもあり
今の家計からさらに3万円を捻出するとなると…
本音は車を手放して自転車ででも通勤してほしい。
もともと自分がギャンブルにはまって
家の一軒も建つほどの金を
パチンコの機械の中に捨てたことが
こうなったすべての原因なのだから
自分が多少通勤のきつさを我慢して
家計の負担を減らそうというような主体性はない。
これも依存症の特性で自分にかかってくることは
なるべく知らん顔をしてぬらりくらりと回避する。
いつも思うが依存者のこの能天気ぶりは見事だ。
だから依存者の末路が自殺というのは極めて少ないと思う。
依存者の脳はとっくに自分の生き方を客観視して
自省するという機能を失っているのだ。
それなのに依存者を批判することは
共依存者に負い目を感じさせることで
コントロールすることになるからよくないと言われる。
この問題に首を突っ込みたくないというのは
依存と共依存を知識として知ればしるほど
一体何をどうすればいいのかさっぱりわからない
負の無限ループに迷いこんでいくからだ。
要はどっちも精神病でどっちも治らないということなんだろうと
最後は投げ出してしまうのだ。
他人のためにという生き方が精神障害だと結論されたら
マザーテレサもスー・チーさんもみんな共依存なんかいと突っ込みたくなる。
しかし数日前「敬虔な信仰」と「狂信」は同じものという文を見て
なるほどと思ったのだがつまりはそういうことなのだろうと思う。
