「日本文学の革命」の日々

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電子同人雑誌の可能性 259 「コンピュータの本質ー数学とは何か 6 」

2023-01-16 22:24:57 | 日本文学の革命
この「外界」の持つ重要な特徴の一つはそれが「量的存在」であることだ。厳密に把握でき計量化できるような量的特徴を持っているのである

目の前の小石を拾って見る。軽いながらも確かな重さを感じ取れるし、堅固で複雑な形状も観察できる。もっと大きな石を拾って見る。先程の小石よりも明らかに重たいし、より大きな形状をしていることが分かる。目の前の大きな木を触ってみる。堅くてゴツゴツしていて押しても引いてもビクともしない。相当な重量がありそうで倒れてきたら潰されそうだ。目の前の猫を抱いて見る。丸々と太った肉体がズシリと重い。柔らかくて暖かくて気持ちのいい感触もある。つぶさに観察すれば毛並みにしろ顔つきにしろその猫にしか見られない独特の形状も見て取れる。空を見上げてみる。何もない空間のようだが時おりどこからか風が吹き寄せてくる。空の高い方では鳥が飛んでいる。その姿の小ささからどのくらい遠くに飛んでいるのかその空間的距離を押し測ることもできるのである

周りにいる人々もまず第一に具体的な形状を持った「量的存在」として感じられる。デカい人間もいれば小さい人間もいる。惚れ惚れするような形状を持っている人間もいれば、そうでない残念な形の人間もいる。男のように堅くて粗雑でぶつかると痛い人間もいれば、女性のように柔らかくて繊細で触ると気持ちいい人間もいる。「外界」を観察しているときは我々はその埒外にいるような感覚になるが、もちろん我々自身もまた「量的存在」である。鏡を見たら嫌でも応でも我々自身のリアルな形状を見せられることになる。体重計に乗ったら「こんなはずじゃなかった!」と衝撃を受けるほど「量的存在」としての自分が厳密に計られてしまう。「外界」においては我々自身もまた厳密な「量」として存在しているのである(まれに幽霊のように「量的存在」を全く持っていないのに外界に現れてくるものがあるが、これは内界の世界が突如外界に闖入してきたようなもので、あり得ない現象として我々を驚愕させパニックに落とし入れる)

「外界」においては森羅万象は「量的存在」であるという特徴を持っているのだが、さらにはそこには何らかの「法則性」が存在している。規則正しく周期的に繰り返されるような普遍的な「法則性」が見て取れるのである

太陽は東から昇って西に沈むことを毎日飽きることもなく繰り返している。季節ごとに違うが厳密に同じ軌道を進んでゆくのであり、そこには確かに「法則性」が感じられる。月や星々も毎日厳密な軌道を描いて夜空を渡ってゆく。季節は春夏秋冬という順に規則正しく巡ってゆき、春の次にまた冬がやって来るということはあり得ない。動物や植物の活動にも「法則性」がある。暖かくなると花々が芽吹くし、寒くなると渡り鳥はどこかに飛び去ってしまう。サケは自分の生まれた川に必ず戻ってくるし、冬になると熊は眠くなり冬眠してしまう。人間においてもこのような「法則性」があり、例えば女性の月経は「29・5日」で周期的に繰り返されるし、男女の出生率は「105:100」という比率に支配されていて男性の方がちょっと多い(これは不衛生だったり無茶したり戦争に駆り出されたりして男性の方が死ぬ確率が高いからなのだろう)

現代の科学から見ればこのような「法則性」もそれほど絶対的なものではないかも知れない。太陽が登ったり沈んだりするのは地球がたまたま自転しているせいだし、四季があるのは自転する地軸がたまたま公転軸に対して傾いていたためである。地軸の傾き次第ではエヴァンゲリオンのように「いつも夏」の世界だって十分あり得るのだ。サケだってあまり乱獲したら生まれた川に戻って来なくなるし、温暖化が進んだら熊も冬眠しなくなるかも知れない。しかしそのような可変性を含めた上でやはり「法則性」はあるのであり、それは「外界」を成り立たせている重要な特徴の一つなのである