意識の波+文章=則天去私
なんだかへんな公式みたいのを出したが、このたった一つのものができたら「日本文学の革命」は実現できてしまう
「意識の波」とは、仏教の根本にあるものを近代的な言葉で表現したものである
漱石の『文学論』の中でもこの言葉が使われているが、仏教のすべてはこの意識の波から生まれたといっていい(これは「座禅」と関係がある)
文章とはもちろん文章のことで、普通に使われているわれわれの言葉である
特にこの場合韻律的な文章を想定して言っている
則天去私とはもちろん漱石の用語である
漱石の文学、ひいては日本文学の全体はこれを目指していたと言ってもいいものだ
つまりこの公式みたいなものは、意識の波と文章を融合して、それと則天去私を一体化する、という意味合いのものだ
前に書いた「韻文の文章化」「仏教の文章化」「則天去私の文章化」を一つにまとめたものである(「ネット」はぶいてある。それほど本質的なものではないので)
「日本文学の革命」は最後にこの一点にまで凝縮した
この一点さえ突破してしまえば、すべてが実現するのである
なのになんで諦めたりするんだろう?
なぜできないなんて思い込んだんだろう?
「意識の波」も「文章」も「則天去私」も十分によく分かっている
やればやるほど深めてゆくことができる
それぞれを融合する手がかりもつかんでいる
やってやれないことはない
十分にできるのに
仏典の中に、あともう少しで悟りが開けるという修行者にそうはさせじとマーラー(悪魔みたいなもの)の大軍勢が攻め寄せてくる話があるが、その類だろうか
あともう少しで十分にできるのに
あやうくつぶされるところだった
ホント危ない
この公式の則天去私は漱石の『明暗』の中心主題である
漱石はこれを実現しようとしたのだが、道半ばで斃れてしまった
意識の波+文章とは「仏教と文学の融合」のことで、これは漱石の『文学論』の中心主題であり、これもまた未完成に終わっているものだ
冒頭の公式は、この二つの未完成作品を一挙に完成させて、そこから「新しい文学」を導き出そうとするものなのである
やってやれないことはない
男一匹 命を賭けて徹底的に戦う価値は、十分にある
もし実現したら「新しい文学」が開け、さらに前へ進むことができる
また新しい独自の文学を書けるようになったら、いずれは社会的にも注目されるようになるだろう
そうなったら文学を職業にすることができるし、経済的な仕事で邪魔されることなくフルタイム・フル回転で評論や文学を書いてゆくことができる
思いっきり日本文学の「後半部」を開拓してゆくことができるだろう
もし「新しい文学」が開けなかったら…
そのときは評論だけで満足しなければならない
今までの経験でよく分かっているが、『漱石』のような評論は誰にも理解されない(あきれるほど理解してくれない)。したがって社会的なブレイクもないだろう
何かの職業に就きながら、余暇にコツコツと書いてゆくしかないだろう
しかし『夏目漱石の継承』を完成するだけでも、僕の人生としては上出来だ
これははじめて漱石の全貌を明らかにするものになるし、日本文学の本質(その偉大な本質)を明らかにするものともなる
これさえ書ければ、たとえ前へ進めなくても、漱石と日本文学の復活だけはできるはずだ
いずれにしろ あと先かえりみずに徹底的に戦おう!
これが僕の“生きる道”であり、僕の人生だ
ここに生き、この道を行ける所まで徹底的に歩んで行き、そしてここで死ぬことができたら、こんな本望なことはない
人生なんて短い
まごまごしているうちにアッという間に過ぎ去ってしまう
自分の生きる筋、自分の本質、自分の道を見失ったら、すべてが虚しいままに消え去ってしまうだろう
僕の人生はここだ
僕の生きる道はここだ
この道を最後の最後まで歩んでゆこう
(この方が人生は遥かにおもしろい。有意義だ)
なんだかへんな公式みたいのを出したが、このたった一つのものができたら「日本文学の革命」は実現できてしまう
「意識の波」とは、仏教の根本にあるものを近代的な言葉で表現したものである
漱石の『文学論』の中でもこの言葉が使われているが、仏教のすべてはこの意識の波から生まれたといっていい(これは「座禅」と関係がある)
文章とはもちろん文章のことで、普通に使われているわれわれの言葉である
特にこの場合韻律的な文章を想定して言っている
則天去私とはもちろん漱石の用語である
漱石の文学、ひいては日本文学の全体はこれを目指していたと言ってもいいものだ
つまりこの公式みたいなものは、意識の波と文章を融合して、それと則天去私を一体化する、という意味合いのものだ
前に書いた「韻文の文章化」「仏教の文章化」「則天去私の文章化」を一つにまとめたものである(「ネット」はぶいてある。それほど本質的なものではないので)
「日本文学の革命」は最後にこの一点にまで凝縮した
この一点さえ突破してしまえば、すべてが実現するのである
なのになんで諦めたりするんだろう?
なぜできないなんて思い込んだんだろう?
「意識の波」も「文章」も「則天去私」も十分によく分かっている
やればやるほど深めてゆくことができる
それぞれを融合する手がかりもつかんでいる
やってやれないことはない
十分にできるのに
仏典の中に、あともう少しで悟りが開けるという修行者にそうはさせじとマーラー(悪魔みたいなもの)の大軍勢が攻め寄せてくる話があるが、その類だろうか
あともう少しで十分にできるのに
あやうくつぶされるところだった
ホント危ない
この公式の則天去私は漱石の『明暗』の中心主題である
漱石はこれを実現しようとしたのだが、道半ばで斃れてしまった
意識の波+文章とは「仏教と文学の融合」のことで、これは漱石の『文学論』の中心主題であり、これもまた未完成に終わっているものだ
冒頭の公式は、この二つの未完成作品を一挙に完成させて、そこから「新しい文学」を導き出そうとするものなのである
やってやれないことはない
男一匹 命を賭けて徹底的に戦う価値は、十分にある
もし実現したら「新しい文学」が開け、さらに前へ進むことができる
また新しい独自の文学を書けるようになったら、いずれは社会的にも注目されるようになるだろう
そうなったら文学を職業にすることができるし、経済的な仕事で邪魔されることなくフルタイム・フル回転で評論や文学を書いてゆくことができる
思いっきり日本文学の「後半部」を開拓してゆくことができるだろう
もし「新しい文学」が開けなかったら…
そのときは評論だけで満足しなければならない
今までの経験でよく分かっているが、『漱石』のような評論は誰にも理解されない(あきれるほど理解してくれない)。したがって社会的なブレイクもないだろう
何かの職業に就きながら、余暇にコツコツと書いてゆくしかないだろう
しかし『夏目漱石の継承』を完成するだけでも、僕の人生としては上出来だ
これははじめて漱石の全貌を明らかにするものになるし、日本文学の本質(その偉大な本質)を明らかにするものともなる
これさえ書ければ、たとえ前へ進めなくても、漱石と日本文学の復活だけはできるはずだ
いずれにしろ あと先かえりみずに徹底的に戦おう!
これが僕の“生きる道”であり、僕の人生だ
ここに生き、この道を行ける所まで徹底的に歩んで行き、そしてここで死ぬことができたら、こんな本望なことはない
人生なんて短い
まごまごしているうちにアッという間に過ぎ去ってしまう
自分の生きる筋、自分の本質、自分の道を見失ったら、すべてが虚しいままに消え去ってしまうだろう
僕の人生はここだ
僕の生きる道はここだ
この道を最後の最後まで歩んでゆこう
(この方が人生は遥かにおもしろい。有意義だ)